第4章 日本と中国の国交回復は急ぎすぎだったか

2019年10月2日

 1972年(昭和47)7月、田中角栄は総理大臣になると、8月ハワイで、日米首脳会談を行い、ニクソン大統領の了解をとり、9月、日本は、中華人民共和国と国交を正常化した。ニクソンは、前年、キッシンジャーを北京に行かせ、ニクソンショクを起こしていたから、日本に対し、絶対反対だ、いままで通りでいいではないか、といえなかった。
しかし、今思えば、日本は少し、急ぎすぎたのでないか。

 中嶋嶺雄(1936-2013)氏は「『日中国交正常化』は誤りだった」とし、「拙速外交の大きなツケに日本は今日も高い代価を支払わされているばかりか、それほどの代価を払ってきたのに中国側はこの四十年間、日本に対する敬意や本物の友情を示すことは一切なかった。日中国交正常化は、はたして正しい選択だったのだろうか。」(WiLL2012年10月号76頁)と述べている。あのとき、わたしも田中角栄総理の英断に拍手を送ったが、たしかに、今思うと、もうすこし時間をかけるべきであった。

 文革という失敗の時代を経て、経済的に疲弊した中国と経済力が強かった日本は、当初、蜜月と云っていい関係だった。

 それから20年、30年経つうちに、中国は、すっかり経済大国になり自信をもつようになった。
 経済力をつけ、すっかり世界第2位の経済大国になった中国は、第3位に落ちた日本とは、国交正常化から40年経過すると、いまや日本を見下している、教えられた教え子が、かつての先生に、もう先生の時代ではないと、退場を迫っている。

 新幹線技術は、日本が教えたが、おそらく、日本企業のもつ特許権も無視して、厚顔にも世界各国に、売り込もうとしている。
 JR東海の葛西敬之氏は、日本の「諸君!」など雑誌で、新幹線技術を中国には売るな、協力するな、と声を大にして反対していた。
 川崎重工業とJR東日本は、葛西意見を無視して、中国に協力した。川崎重工業とJR東日本には、政治家から圧力がかかったと思う。
 中国に協力し、技術移転を推進した当時の社長、会長等首脳陣は、これらの事情を公表してもいいのでないのだろうか。
 かって、日本とアメリカ、西欧諸国との間で経験したことでないか、という意見もあろうが、これほど厚顔ではなかったと思う。日本も米国、西欧諸国の技術を「盗んだ」ことが絶無でないにせよ、これ程ではなかったと思う。

 中国に対して、フエアな、自由競争をしたい。世界の先進諸国において、流通している法、先進諸国で許されている法を守って、平和裡に競争したいと思う。