2016年4月4日、大家 重夫
当時、日本語を外国人ー特に東アジアの人々に教えることについては、鷲塚課長が、「戦前戦中の実績」がある、大丈夫です、とわたしに自信満々でいわれたことを思い出す。
国語課にながく在籍した鷲塚氏には、そのことは、国語課の常識であったらしい。
国語課の上岡課長補佐の前任、森正直氏(国語課課長補佐を3年、国語課課長2年した。のち久留米大学経済学教授)とは、当時も今もともに酒を飲み、雑談をする仲であるが、彼からも同じことを聞いた。
後に、わたしは、昭和13年設置の興亜院(昭和17年9月1日発足の大東亜省へ吸収された)、外務省系の国際学友会(1979年、文部省へ移管され、2004年、日本育英会、国際教育協会、内外教育センターなどとともの日本学生支援機構となる)が東アジアの人々への日本語教育を研究、実施していたことを知る。(注17)
戦前、戦中の日本語教育法が、吉田彌壽夫教授、西尾珪子氏らの「日本語教育法」と全く無縁であるのか、多少の影響を与えているのか、それは知らない。
戦争中、のち、文部大臣になる大達茂雄は初代昭南市(シンガポール)長だった。内務官僚、著作権法学者小林尋次は、スマトラ・ランボン州長官であった。評論家日下公人氏の父親は、シンガポールで裁判長をしていた。日本語通訳や日本語を解する現地人が必要であったのだ。政府主導で日本語学校が方々にあったのだ。南洋諸島、フイリピン、ミャンマー、インドナシア…で、日本語教育が行われていたのである。
古書店で、安田敏朗「植民地のなかの『国語学』」(三元社・1998年)、多仁安代「大東亜共栄圏と日本語」(勁草書房・2000年)を入手し、書棚に飾っている。
なお、日本人は、神社の鳥居を作り、置いてきたといわれるが、仏教も進出していた。
大澤広嗣「戦時下の日本仏教と南方地域」(法蔵館・2016年)が最近発行された。
日本に一度住んでいて、ラオスに帰国していたが、天理市の天理教本部に引き取られていた30代のラオス人女性がいた。この人は、日本に一度、美容師として来日した経験が有り、天理教関係者と知り合いであったらしい。
本人と天理教本部の申出で、姫路のセンターに入ることになった。私は、1979年11月28日、天理市に行き、その女性を姫路の定住センターに連れていった。
姫路駅には、NHK姫路放送局の木下正彦記者、坂井剛ニュースカメラマンが待機していて、写真を撮られNHKで放映された。坂井さんからは、この女性が、広島の日本人と結婚し、幸福な家庭を作っているとのち坂井さんから知らされた。
坂井さんとは、しばらく年賀状のやりとりをしていたが、今は、途絶えている。
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総理府5階の部屋に、「名刺は、出しません。勘弁して下さい」といって、50代の紳士がやって来た。商社に勤務されて、ベトナムに派遣され、今は日本に戻った彼には、ベトナム人の現地妻がいた。その女性がマレーシアの島の難民施設にいる、との連絡が入った。何とか、難民定住センターに入れて貰えないか、というのである。こういう質問は、法務省入国管理局出身の黒木審議官しか答えは出せない。黒木審議官が、無理ですと答えたことを思い出す。将来、多妻を認めるイスラム教徒の難民を受け入れるとすれば、この場合、どう答えるべきであろうか。
昭和56年、鷲塚調査課長を通じて、インドシナ難民の中で、日本の大学に進学したいという希望者がいるらしい、今後、増えそうだ。しかし、外国で12年の学校教育を終了したという教育課程修了証明書が受験の際、必要である。何とかしたい、と相談を受けた。
難民の場合、学歴を裏付ける証明書を提出せよというのは無理な話である。
わたしは、文部省の大学課の小口浩一課長補佐に会い、口頭で、教育課程を経たことを申告すればよいように要望を取り次いだ。
当時の田中龍夫文部大臣は、学歴証明は口頭でよい、と昭和56年9月、発表した。2015年、文科省のOB会で、小口氏と再会し、「あの時は世話になった」と話題になった。インドシナ難民で、大学に進学した人は多い。来日時、子供で、あるいは父母が来日後、日本で生まれた子供は、多くが日本の大学に入学している。
昭和56年11月15日、大和定住センターで、酒に酔ったベトナム人が、ベトナム人同士で喧嘩を始めた。ラオス人の少年が1人で、止めようとして、そのうち、ベトナム人対ラオス人の衝突になった。大和警察署員もかけつけた。騒ぎは収まったが、ラオス人は、ベトナム人がいなくなるまで帰らない、といって、隣の空き地で、抗議活動を行った。
内藤健三所長が説得、20人は、センターに戻ったが、47人が何処へ消えた。
海老名市に住むセンターのコックの家を47人が訪ねていた。47人全員がコック宅に入れず、周辺でしゃがみ込んでいるところへ、内藤所長等が説得するという事件だった。
コックは、ラオス人に好かれており、以前、数人のラオス人が、1,2度訪問したことがあったという。
もともと、大和定住センターは、ラオス人、カンボジア人とし、姫路定住センターにベトナム人と決めていたが、アメリカを希望していたベトナム人が、日本定住に転向したり、ベトナムからのボートピープルが増え、日本定住を希望し、やむをえず、大和センターに入れたのだった。
ベトナム人22人、ラオス人67人、カンボジア人43人合計、132人がいて、ラオス人、カンボジア人は、多いのに、とその時も思ったが、ラオス人、カンボジア人はやさしく、ベトナム人は、人数が少なくても、たくましく強かった。
今後もし、外国人の受け入れが行われることがあれば、生活空間は、国別が望ましい。
定住センターの方で、このような新聞記事になることは、そう多くなかった。
新聞というものは、普段は、殆ど報道しないが、こういうとき、各紙は大きく取り上げて報じた。こういう事件は、まれにしか起こらない。
頭が痛いのは、日本あるいは外国の船舶が、海上で、難民を救助したという連絡が、何時、入るか分からない、ということだった。
厚生省や日本赤十字社などに電話し、施設先をきめて、連絡、指示することであった。
日本赤十字社の片岡経一社会部長、田島弘ベトナム室長、長崎支部の山下喜八氏などの御世話になった。
村角泰局長、黒木忠正審議官の顔を見ると、あのときは、大変だったと記憶が甦る。
定住センターを設置してみると、大勢のボートピープルが救助されたりして、一挙に満員になるかと思えば、日本語教育を終えて、就職し、定住センターに余裕のある時期が有ることが分かった。ボートピープル救助は、偶発的である。
当時、難民受入枠は、500人である。我々も、特に外務省は、この500人を国際約束と捉えていた。
そこで、我々は、タイ、香港、マレーシアのどの難民施設にいて、日本に定住してもいいという難民を受け入れることにし、われわれ内閣の難民事務局員、外務省難民対策室、アジア福祉教育財団職員は、東南アジアの施設を訪問し、選抜することになった。
1980年1月10日から26日まで、東南アジア各地の難民状況を把握するため、調査団を派遣することになった。小守虎雄氏、黒木忠正氏、外務省のベトナム対策室長らであった。この調査団の結果をもとに、インドシナ難民対策連絡調整会議に諮り、東南アジアの難民施設にいる難民へ、「日本への定住希望者を募る」ため、手分けして、出張することになった。
概ね、健康な人、日本人企業に勤めたことのある人など縁故のある者を優先した。
このことについて、どのように内閣の「インドシナ難民対策連絡調整連絡会議」で決定あるいは、了解をとったか記憶にない。
外務省主導で、決まったように思う。当時、私は、そこまでしなくてもいいのでないか、と思ったことも事実である。受け入れ人数は、当初500人と決まるが、これを国際約束と考えていたこと、また、組織というものができると自動的に維持活動あるいは拡張活動をするものである。
第一陣は、2月28日から3月8日までで、タイのウボン、ノンカイで、外務省難民対策室の田口省吾氏、難民事業本部の松本基子氏であった。
現地の難民収容施設にいて、日本への定住希望者がいれば、日本に迎えるという計画が実行に移された。外務省、難民事業本部の職員、内閣難民事務局の職員が手分けして、東南アジアへ出張した。持参する資料作りも一仕事であった。
難民事業本部の高橋正弍氏は、ベトナム語、カンボジア語、ラオス語、英語で、「日本に定住しませんか」というポスター、パンフレットを作成したこと、英語については、村角事務局長と難民事業本部のベッキーさん(外交官夫人)が、夜遅くまで、その表現をチェックしたことを思い出してくださった。
私は、難民事業本部の開原紘氏らとタイのソンクラ、バンコク、ノンカイ、香港に行った。
開原氏のメモによると、私は第5班で、3月20日から29日までだった。(注17-2)
20日、バンコクで1泊。21日、ソンクラ着。
1941年12月8日、大東亜戦争が始まった時、日本陸軍は、現在のマレーシアのコタ・バルに上陸したと聞いたが、ソンクラは、そこに近い町で、ベトナム人難民収容施設があった。日本に定住する気持ちがあるか、日本企業に勤務したことのある人はいないか、と我々は面接で聞き、難民を「発掘」したのであった。
この施設で、わたし達が、キャンプや施設に向かい、部屋で日本定住希望者と面談する後ろ姿を日本のテレビ局(東京放送と思う)が写し、同行したキャスター木元教子さんが解説した。
23日、ソンクラを出発し、バンコク。24日、早朝バンコクからノンカイへ。
タイの北部のノンカイという町のことは、よく覚えている。川を隔てた向こう岸が、ラオスで、日本の明治大正時代の風景は、おそらくこうであったろうというような、穏やかで、心落ち着く町が見えた。ラオス領には入らず、タイ領から見ただけであった。ノンカイの高級ホテルを紹介されたが、ヤモリが天井や窓を走りまわる部屋であった。
26日、香港の収容施設にいく。
それぞれの収容施設毎に、日本に行きたいか、日本人に縁故があるか、日本企業に勤務したことあるか、などを聞いて、
といった3分類をした、と思う。
帰国し、合同の報告会をし、2つの定住促進センターへ、入所させたのである。
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昭和55年6月17日、難民受入の枠を500人から1000人と拡大した。
各省の代表が集まる内閣の「インドシナ難民対策連絡調整連絡会議」で決定した。
当時、わたしは雑誌「れいろう」昭和56年2月号12頁に、インドシナ難民の引受数を掲載している。難民高等弁務官事務所が発表した資料と思われる。再掲する。
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当時、外務省の役人は、国連などでこの数字を示されたり、外国のいろんな会議で、外国人と話をする度、もう少し、大勢、引き受けたい、という気持ちになったと思う。
われわれは、定住促進センターを卒業し、就職した難民が、会社に合わず、あるいは土地に合わず、再び、センターに戻った事例を当時聞いた。それほど、多くなかったようだ。
心配は、生活保護を受ける者がでることだった。
アジア福祉教育財団難民事業本部OBの高橋正弍氏により、1990年頃だが、ごく少数のインドシナ難民が生活保護を受けていること、中国帰国子女の方は多い、という話を聞いている。
やや古い話であるが、2013年5月22日、厚労省が、発表した数字を見る。2013年2月現在、日本全国で、215万5218人、世帯数で157万4643戸が生活保護を受けている。
そのうち、2011年の生活保護受給外国人総数は、4万3479世帯(前年4万29世帯)、最も多く受けているのは、韓国・朝鮮籍2万8796世帯(前年2万7035世帯)、2位、フイリピン4902所帯(前年4234所帯)、3位、中国は、4443世帯(前年4018世帯)、4位、ベトナム651世帯である。
このベトナム651世帯が、ベトナム難民とどういう関係であるか不明である。
人口比率で見ると、日本人は、81人に1世帯、韓国・朝鮮籍は、19人に1世帯、フイリピン籍は、43人に1世帯、ベトナム籍は65人に1世帯、中国籍は、146人に1世帯という。
以上の数字は、中国人莫邦富氏の2013年5月31日のネット記事から採った。
莫邦富氏は、在日中国人は、「中国人は自立心が強異民族で生活保護への依存度はきわめて低い」としている。ベトナム籍の者もそう多いというわけではない。
難民を支援する有志の団体が生まれ始めた。その会合にときどき呼ばれた。
「難民を助ける会」の相馬雪香さん(尾崎行雄の三女)とは、何度か、お目にかかった。
「官民一致」でとか、「官民」という言葉は、よく使われる。私もつい、「官民一致で」と慣用であり使うと、「民官一致」「民官」というように、民を先に言うように、と注意を受けたものである。こういう方がおられ、「官」を叱咤するすることは、日本国にとって貴重であり、幸いである。
相馬雪香さんは、日本動物福祉協会の理事をされており、その関係から、総理府におかれた動物保護審議会の委員をされていた。また吹浦忠正氏は、末次一郎氏(1922-2001)が青少年問題や北方領土返還問題などで、よく総理府にお見えになっておられ、お見かけしたものである。
吹浦忠正氏、柳瀬房子氏がいまだに、「難民を助ける会」をつづけられていることに頭が下がる。吹浦氏は、数多く著作があるが、吹浦氏が構成され、解説されたトラン・ゴク・ラン「ベトナム難民少女の十年」(中公文庫・1992年)がある。社会福祉法人・日本国際社会企業団(I・S・S)の伊東よねさんも、よく事務局に訪れてくださった。
木村吉男氏(日本鉄鋼連盟勤務)、とも、当時、何度か、顔を合わせた。
国際法学者本間浩駿河台大学教授(1938-2013)とは、私は著作権課在職の頃、国立国会図書館立法考査局にいた氏と顔見知りで、当時、時々、意見交換した。岩波新書「難民問題とは何か」を1990年に上梓された。2013年、死亡されたことは残念である。
私は、1982年(昭和57年)7月9日、鈴木善幸総理大臣名で、現官職「内閣審議官兼総理府事務官」の「兼官を免ずる」及び現官職「文部事務官兼内閣審議官」の「兼官を免ずる」、翁久次郎内閣官房副長官名で、「インドシナ難民対策連絡調整会議事務局員を免ずる」、小川平二文部大臣名で、初等中等教育局視学官から「文化庁に出向させる」
佐野文一郎文化庁長官から「文化庁宗務課長に昇任させる」との辞令を貰った。
1982年7月9日から、宗教法人を担当する宗務課長になった。「宗教年鑑」「宗務時報」の編集発行、国会質問、質問趣意書への返答くらいで、権限がないと言っていいので気楽ではあった。宗務課には、「宗教法人審議会」がある。第15期の宗教法人審議会で、重要事項は、この審議会に諮る。会長は、福田繁国立科学博物館長(元次官、敗戦時の宗務課長)、学者として、相澤久上智大教授、、芦部信喜東大教授、宮崎清文日本交通福祉協会会長(元法制局参事官)で、キリスト教から、中本仁一日本バプテスト同盟総主事、松村菅和日本キリスト教連合会委員長がおられた。久しぶりにお目にかかることになった。頭を下げて、従前のお礼を申し上げた記憶はある。
1983年4月21日、中曽根総理大臣は、靖国神社に参拝し、「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と発言し、同年5月10日参院内閣委員会で、後藤田官房長官は、「今回の中曽根総理の靖国神社参拝は、従来からの政府の統一見解の枠内のものである」と答弁した。
1983年7月11日、自民党は、その内閣部会に「靖国神社問題に関する小委員会」を設置し、奥野誠亮議員を小委員長に選任した。私は、再び、奥野誠亮議員と縁ができた。
いかなる方式、形態であれば、総理大臣、閣僚の公式参拝が合憲であるか、を研究する会だった。私はこの「小委員会」へ、敗戦後、靖国神社関係の政府が出した通達、津地鎮祭事件最高裁判決などを持参し、奥野先生のこの小委員会を渡辺隆課長補佐と何度か傍聴した。この委員会の委員には、芦部信喜教授、江藤淳氏がおられた。
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1984年(昭和59年)4月1日、国立吉備少年自然の家所長に任命された。国立吉備少年の家は、岡山駅から約40キロ、伯備線の高梁駅から約25キロの賀陽町吉川にある。社会教育畑への転進である。
青少年団体の事務局挨拶回りをする。日赤短大教授の肩書きもある吹浦忠正氏は、青少年団体の御世話もされており、「難民問題では御世話になりました」と挨拶した記憶がある。
1984年9月1日、インドシナ難民の姫路定住センターの方と大和定住センターの合同研修会を、吉備少年自然の家で行うことになり、おいで頂いた。
難民事業本部の小守虎雄所長、吉田彌壽夫教授、大木氏ら男性6人、西尾珪子氏、岩見宮子氏、安逹幸子氏、久保氏ら女性7人お見になり、久闊を叙した。
京大学生時代からの友人古野喜政氏(ソウル支局長、毎日新聞常務、現ユニセフ大阪代表)は、毎日新聞の大阪本社の社会部長をしており、顔が広い。ある篤志家が慈善に使いたいといってお金が差し出すという。何か案はないか、という。そこで、吉備少年自然の家へ、インドシナ難民を1,2泊させたい、費用に充てたいと提案した。
1985年、姫路定住センターのベトナム人約50人と日本語教師数名が宿泊し、喜ばれた。
1986年(昭和61年)4月1日附けで、国立オリンピック記念青少年総合センター次長に任命された。
1988年(昭和63年)3月1日、文部省を退職、翌3月2日、私立の久留米大学法学部(1987年創設)教授となり、著作権法、知的財産法を担当することになった。
九大法学部長をされた林迪廣教授が新設の法学部長格で(初代吉田道也教授は病没された)、教員を集められ、私は採用された。「これからは知的財産法が必要、自分は労働法学者だが、環境法も研究する」、私に「著作権法、特許法を担当して欲しい」と誘われ、郷里の福岡県にある大学であり、喜んで応じた。1年生に著作権法を教えなくていいでしょう。2年目に赴任したい、と答えると、学部の新設であり、初年度中に来て欲しい、といわれ1987年度である1988年3月2日に赴任した。
驚いたのは、久留米大学は、西尾珪子氏の親戚筋の石橋正二郎氏が理事長をされたり、資金援助されるなど石橋家と関係の深い大学であったことである。
平成にはいり、私は、国際日本語普及協会評議員に選任され、2010年、同協会理事会の理事に選任された。石橋幹一郎氏と目にかかると、最近の久留米大学、石橋美術館の様子を尋ねられたものである。2005年3月、定年退職、名誉教授。特任教授に任命され、2010年3月、特任教授を退任し、東京に舞い戻ることにした。
その後の「難民」対策の動きは、次のようである。
1982年(昭和57年)、難民条約が発効し、「出入国管理及び難民認定法」が施行された。
新日本法規という出版社から「肖像権」を上梓した縁から、そのPR誌「法苑」昭和57年4月号に「『亡命者』と『難民』」を書いた。REFUGEEを「難民」と訳したが、「亡命者」とした方がよかったのでないか、というつもりであった。案の定、難民申請が多く、認定されるのは少ないと、法務省が非難されている。条約は、当該人物を本国に送還すると牢獄が待っており、死刑になりそうな者を想定している。政府の方針に反対するというデモ行進に参加しただけの者が、難民認定申請をし、却下されるのは当然である。
2002年(平成14年)、閣議了解により、条約難民に対し、定住支援を行うことした。この年8月7日、「インドシナ難民対策連絡調整会議」を廃止し、あらたに「難民対策連絡調整会議」を設置した。インドシナ難民に特化した政策、事業は、終了した。
2010年頃から、ミャンマーからの第三国定住難民を受け入れ始めている。
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1991年(平成3年)に「国際研修機構」(JITCO, Japan International Trainingu Cooperation Organization)ができた。法務省入管局が中心となり、外務省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省が協力し、外国人を対象に、日本語教育を行い、企業を紹介し、そこで、技能実習を行っている。
23年の経験をもち、相当の実績を上げているようであるが問題も多い。(注18)
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2015年末、条約難民633人、第三国定住によるミャンマー難民105人、別にミャンマーのロンヒャギ族(イスラム教徒)230人、条約難民を申請したが非該当とされ、しかし、日本に居る者2106人、そして、不法滞在者(国際研修機構の脱走者など)が数万人いるという。
1979年「インドシナ難民」受け入れ事業は、ベトナム、カンボジア、ラオスの3国民に、まず、日本語教育を施し、就職を斡旋し、日本に溶け込ませた。
思いつくまま、反省点をのべる。
1),難民対策連絡調整会議事務局という位置づけでなく、一元的に外国人行政を行う部署を作るべきであった。消極的権限争い、といわれるが、各省などは、当時、「旨みのない仕事」である「難民受入業務」を譲り合った。せめて、当時、「総理府」に、「課」か「部」を置くべきであった。
アジア福祉教育財団の難民事業本部の幹部は、各省庁からの出向で、本省から給与が出て、銀行からの出向者には、外務省からの委託費という補助金から出身銀行へ支払い、そこから本人に振り込まれた。年金等の期間をとぎらせない等の措置であった。青年海外協力隊出身の人々もいた。年金等のこともあり、処遇は、十分であったか気になる。アジア福祉教育財団か難民事業本部は行政機関にし、職員を公務員にすべきであろう。
2),外国人庁の設置
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こういう事態を考えると、「外国人庁」の設置が必要である。
法務省入国管理局を中心に、外国人を一元的に把握し、管理する外国人庁を設置すべきである。政治亡命者が入国することを考えると、総理大臣の下に置くべきである。
難民の受入れ保護について、現在でも、担当する省庁がない。行政組織法になく、必要な予算をつけるべき省庁はない。ここに当時の難民会計予算を掲げるが、一本化が必要である。(注19)
この外国人庁は、次の業務を行う。
3),大企業への就職
労働省出身の向井舜治氏、小守虎雄難民事業本部長の奮闘により、インドシナ難民の就職は殆ど100%であった。ただ振り返ってみると、大企業が全くなかった。
4),難民移民の所在の把握
われわれ内閣官房は、センター卒業後のインドシナ難民の就職先、住所まで把握しなかった。そういうことはすべきでないとすら考えた。今後、日本が難民を引き受けざるを得ない時、性善説でなく、性悪説にたち、外国人庁で情報を把握すべきである。
私が、この仕事を離れてから、新聞、雑誌からか、インドシナ難民に、福建省の中国人がいたのでないか、という噂を聞いた。確かめることもなくそのままである。(注20)
また、定住したベトナム人で、その後、ベトナム国に入国したり、行き来している人もいるらしいということを難民事業本部の人から聞いた。
ミャンマー難民とミャンマー政府が早く和解して欲しいと思う。
難民のなかには、ノイローゼになったり、日本に不適応な者もでたりした。幸い、アジア福祉教育財団が、駆け込み寺の役目を果たしていると思う。
アジア教育福祉財団は、難民と連絡をもち、平成のはじめ頃まで、文部省予算をもらい、難民に日本語教育を行うボランテア団体へ、辞典など日本語教材を難民に送った。のち、日系ブラジル人も含む難民へ教えている、いいかと要望された。大目に見ることにした。
インドシナ難民援護について、何よりも感服するのは、奥野誠亮名誉会長、綿貫前会長、石崎茂生事務局長らが、毎年1回、秋に、新宿区(前は品川区)が協力し、「難民を励ます集い」を開催していることである。奥野会長等は、優れた難民を表彰し、難民を雇用している中小企業の社長達を表彰し、励ましている。この集いで、必ず、ベトナム、カンボジア、ラオスの民族舞踊が披露される。3国の難民にとって、日本における古里であり、同国人の連絡場所になっている。このことによって、もし、ベトナム人、カンボジア人、ラオス人の誰それは、どこに住んでいるか、知りたければ「難民を励ます会」出席者に問い合わせると分かる。
5),中国帰国子女のこと、日系南米人のこと
インドシナ難民の受入は、内閣官房で、連絡調整会議事務局という組織で行われたが、当時、中国帰国子女の受入事業が始まっていた。この中国帰国子女は、すべて日本人であるため、当時の厚生省がひとり、抱え込むことになった。そちらの日本語教育はどうなっているか気になっていたが、まったく、私は知ることはなかった。
また、やや後になるが、日本の経済状況が好転し、南米の日系人が、日本に入国し、職業に就き、子供が日本の学校に入ることになった。日本人、日系人というだけで、日本語能力を問わず、入国させたため、日本語のできない方は苦労されたと思う。内閣で、あるいは省庁で対策を講じられたという話は聞いていない。日本の数カ所に、無料か低廉な月謝の常時開設の「日本語学校」を開設してはどうか、と思ったものである。
6),国外、国内に日本語学校の設置
文部科学省あるいは前述の外国人庁が、国外5カ所、国内5カ所に日本語学校をおく。
2018年3月11日、政府の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)は、「外国人受け入れ拡大を」するよう指示した、と報じた。
ミャンマー、フイリピン、ラオスといった国に日本語学校をつくり、4月間の教育を行 い、これを終えた者を、企業と法務省入管局の者が面接し、採用すべきである。
日揮や清水建設、鹿島建設は、海外で現地人を雇傭している。
その現地人に接して、人柄も知悉している現地人は、企業が保証人として、入国させ、日本の日本語学校に通わせ、日本企業が採用し、仕事と住居を与えるとよい。
経済財政諮問会議の方々へ、申し上げたいのは、日本語を習得しない外国人とは意思の疎通ができず、犯罪、殺人事件が起こりやすい、是非、日本語教育を重視して欲しい。
【注17】
多仁安代「大東亜共栄圏と日本語」(勁草書房・2000年)は、朝鮮、台湾、南洋群島、マラヤ、シンガポール、インドネシア、フイリピン、ビルマにおける日本語教育について、歴史的に網羅して、それぞれの実際の状況を述べている。
安田敏朗「植民地のなかの『国語学』ー時枝誠記と京城帝国大学をめぐって」三元社・1998年。巻末に参考文献として多くの論文が列挙されている。その中に、次のものがある。駒込武「日中戦争期文部省と興亜院の日本語教育政策構想」(「東京大学教育学部紀要」29巻)(1989年)、藤村作「国語の進出と国語教育」(国語文化講座六 国語進出編)」朝日新聞社・1942年。
長谷川恒雄を代表とする「第2次大戦期興亜院の日本語教育に関する研究」(2002年度から2004年度)の研究概要は「1,昭和10年代は、国家の膨張に伴い、日本語教育が海外に進展した時期であり、外務省系の主導による活動(国際学友会、バンコク日本文化研究所設置等)、文部省の主導による活動(国語課設置、日本語教育振興会の文部省内移転等)が知られていた。2,興亜院(1938設置)の日本語教育活動については資料を欠き、そこで日本語教育活動が行われていたことすら知られていなかった。」とある。
中村重穂「興亜院派遣日本語教師の日本語教授法講義録の分析:『国民学校』国民科国語」との関連から」北海道大学メデイア・コミュニケーション研究62巻33頁4以下(2012年5月25日)。
関正昭「『日本語教育学』の系譜」愛知教育大学教科教育センター研究報告13号117頁(1989年)。
河路由佳「戦時体制下における『国際文化事業』としての日本語教育の展開」-1934-1945年の国際文化振興会と国際学友会」(要旨) (ネットによる)
【注17-2】
開原氏によると、私達の第5班は、大家重夫、法務省横浜入国管理局入国審査官の山崎氏、労働省横浜公共職業安定所の宮島氏、青年海外協力隊エチオピア派遣OBの内藤氏、難民事業本部の開原紘氏(青年海外協力隊ラオス派遣OB)であったという。
【注18】
(出所:国際協力機構HPより)(拳骨拓史「『日本は渡来人大国』のウソー安易な外国人受け入れが抗日運動をもたらした」Voice 2014年7月号126頁、表は129頁)。
この表では、国際研修技術協力機構が何年に何人、受け入れたかが不明である。
なお、2005年、83,319人の研修生が入国しており、国際研修技術協力機構が支援した研修生総数は、57,650人、内訳は、団体管理型 49,480人、企業単独型7,750人という(以上、JOTCO白書2006年版)。
2015年3月7日産経ニュースによると、平成26年(2014年)は、4851人が行方不明(失踪)、現行制度になった平成22年、1282人、23年以降増加傾向、平成25年は3567人。25年度の失踪者の国籍別では、中国が60%、ベトナム27%。
【注19】
難民事業受託特別会計予算の推移
※ 昭和54年度予備費。 △このうち、60百万円は、昭和57年度予備費。
▽ 昭和56年度予備費。
【注20】
石平・有本香「リベラルの中国認識が日本を滅ぼす-日中関係とプロパガンダ」(産経新聞出版・2015年11月8日)50頁に有本香の次の発言がある。「石さんが日本に来る前、70年半ばに、テレビのニュースをにぎわしたのは、戦後の混乱期にあったベトナムからのボートピープルが日本に流れ着いたという話題でした。ところが、後にそれはベトナム人だけではないということが分かりもした。福建省からやって来た中国の経済難民、偽装難民がかなりいたのです。多くは強制送還されましたけれど。」。