第2章 反日暴動について – 前編 –

2019年9月4日

 ここでは、6つの中国の暴動を取り上げる。

1.1999年(平成11年)(反米)

 1999年3月、コソボ紛争で、NATO軍(事実上米軍)がユーゴを空爆し、ベオグラードの駐ユーゴ中国大使館を誤爆した。
中国では、全国的に大規模の反米デモが起こった。破壊活動は、比較的少ない。
湖南省の長沙市では、マクドナルドの店舗が破壊された。

2.2004年(平成16年)

 8月7日、北京。サッカー・アジアカップ決勝戦が行われた。

 この暴動のことについては、富坂聰「苛立つ中国」(文春文庫・2008年)24頁以下が 詳しい。

3.2005年(平成17年)(反日)

 中国では、2002年から胡錦濤が総書記だが、2004年まで江沢民が党中央軍事委員会主席を手放さなかった。江沢民の力が強く、胡錦濤は、力を振るえなかった。

 3月、アナン国連事務総長が、日本の安保理事国常任国入りを支持する発言をした。2005年4月2日、四川省の成都市で、日本が国連の安全保障理事会の常任理事国入りに反対する抗議行動があった。成都市内のイトーヨーカ堂1号店の1階窓ガラス数枚が割られた(朝日2005年4月4日、小林史憲28頁)。
広東省深?市で4月3日、大規模の反日デモがあった。
北京、上?など10数所で激しい反日デモが行われた。

北京

4月9日、北京では、日本企業の入っていた商業ビルが投石され、1階の日本航空、東京三菱UFG銀行が被害に遭った。(松原邦久「チャイナハラスメント」(新潮新書・2015年)100頁)。
北京では、数千人規模の反日集会で、日本製品不買、販売停止、日本の歴史問題への批判、「小泉は謝罪しろ」などシュピレヒコールを上げ、日の丸を破って焼いた(朝日4月9日)。
9日、反日デモは、約1万人で、日本大使館に石や瓶が投げつけられた。「大使館前は重装備の数百人の武装部隊を含む1,000人以上の警察官が警備したが、投石が始まっても制止しなかった。」(朝日4月10日)。

 2005年4月17日、富坂聡は、タクシーで天安門広場、長安街、環状道路を通り華都飯店で下車し、平穏だがタクシーが検問にいくどかぶつかり、これから先は通行禁止と言われている。富坂は、1年前、2004年8月7日、サッカー・アジア決勝戦で、日本が勝った日、タクシーで、華都飯店で降りた日のことを想起する。1年前、華都飯店のすぐ近くで興奮状態の群衆と警官隊がにらみあい対峙し、一触即発の状況であった(「苛立つ中国」(文藝春秋・2006年)描いている。8頁)。

広州

4月10日、広州市では、2万人のデモで、日本料理店の窓ガラスが割られた。アサヒビールは、「新しい歴史教科書をつくる会」に資金提供をしているという誤報を流され、不買運動を起こされた。北京に新工場を建設し、各地への販売を強化したところであった(朝日4月11日)。

上海

4月16日、上海の反日デモが暴徒化した(三橋貴明「中国不要論」(小学館新書・2017年)81頁。
町村外相は、王毅大使を呼び、抗議した。
宮崎正弘「中国瓦解ーこうして中国は自滅する」(阪急コミュニケーションズ・2006年)67頁は、これらの対日暴動が共産党の了承のもとで、組織化して行われた、という。
「中国内部では対日外交をめぐって大きな変化が起きていた。曾慶紅(国家副主席、序列5位、江沢民派)が胡錦濤の遣り方に反対していたのだ。『だからあの反日デモは”火遊び”だった』(香港誌「開放」2005年5月号)」、「第二は、軍の強硬派とハイテク派との対立」「根幹に『上?派』を代弁する江沢民派と胡錦濤派の舞台裏での暗闘、確執がある」として、「軍の強硬派の劉亜州が反日運動に沈黙したのも不気味」「要するに胡錦濤は、軍を完全に掌握していない」という(前掲78頁)。

 2005年の反日暴動では、「被害に遭ったレストランには損害を賠償するからといい、ついに支払いがなかった。日本は静かな抗議を示すために北京の大使館と上海の領事館の施設を破壊されたままとして1年間放置したが、一部例外を除いて(宣伝用)、ついに中国側からの賠償はなかった。」(宮崎正弘「中国大嘘つき国家の犯罪」(文芸社文庫・2014年)56頁)。

 2005年4月の「反日デモ(反日暴動)」について、加藤徹は、次のように批評した。
「反日デモに対する中国政府の対応は、日本人から見ると腹立たしいものの、ある意味で見事だった。政府は頃合いを見計らって、『デモ以外にも愛国心を表現する方法はある』と愛国主義の旗を振りつつ、実際には反日デモを封殺した。民衆のほうも心得たもので、風向きが変わったのを感じとったとたん、ピタリと反日デモをやめた。三千年にわたって貝と羊の両方を使い分けてきた中国人ならではの、阿吽の呼吸である。」(「貝と羊の中国人」(新潮新書・2006年)25頁。

4.2008年(平成20年)(反仏)

 3月にチベットで騒乱が発生した。8月に北京オリンピックが予定されていたが、世界中で、聖火リレーの妨害行為など、対中抗議活動が起こり、特にフランスが、中国に圧力を加えた、と中国に思われた。フランス系スーパー・カルフールが、ダライ・ラマ14世に資金を提供しているというデマが流布し、店舗の打ち壊しが行われた。これも「官製」の暴動のようである。

5.2010年(平成22年)(反日)

 2010年5月、広東省のホンダ系部品工場でストが起きた。

 6月、菅直人(民主党)が日本の総理になった。
2010年9月7日、尖閣諸島漁船衝突問題が起こった。

 日本は、中国人船長を逮捕し、仙谷由人内閣官房長官は、沖縄の検察官に任せた。
中国政府は、デモ参加を自粛させた。遠藤誉「ネット大国中国」岩波新書(2011年)137頁。
9月23日、建設会社フジタの日本人社員4人が河北省石家荘で、中国当局によりスパイ容疑で拘束された。
9月25日 日本政府は、中国人船長を釈放した。
この事件は、日本国民を反中国に向かわせた。

 日本の世論で、「中国は信用できない」とする者71%、「中国は信用できる」とする者7%と圧倒的に中国反対という結果が出た。渋谷で10月2日、「尖閣は日本領、中国は出て行け」のデモと集会は、日本では殆ど報道されず、ウオールストリートジャーナルなど世界のマスコミが取り上げ、中国でも報ぜられた(宮崎正弘「中国大嘘つき国家の犯罪」(文芸社文庫・2014年)57~62頁)。

 フジタの社員を人質にとっていたが、最後の1人を釈放した。

 2010年10月8日、劉暁波にノーベル平和賞が授与、と報道された。

 世界のマスコミが「人権」で、中国を批判し始めた。
宮崎正弘「中国大嘘つき国家の犯罪」(文芸社文庫・2014年)により私は知ったのだが、劉暁波のノーベル賞受賞で、街では祝賀ムードになっていた。台湾、香港でもノーベル賞で、祝賀会が開かれた。
政府は、劉暁破の友人たちの祝賀会を中止させ、劉夫人のストックホルム行きを許さず、監視下に置いた。
ところが、毛沢東の秘書を務め、党組織部長だった李鋭、人民日報元社長胡績偉、新華社元副社長李普、国防大学元研究員辛子陵、元中央党学校教授の杜光らが発起人となって、言論の自由を呼びかけた。ネットで、1万人の署名が集まった。
中国共産党中枢部に劇的な亀裂が入った。
宮崎正弘によれば、こうである。
「そこで党内左派と上海派は、窮地を脱するためにもう一芝居を打つ。毛沢東は言ったではないか。『国内矛盾を対外矛盾に転化せよ』と。そう、終息しかけた『反日カード』をもう一度使うことにしたのである。」(宮崎前掲71頁)。

 10月16日、大規模の反日デモが行われた。四川省の成都、陜西省の西安、河南省の鄭州など内陸部で行われた。成都市で、イトーヨーカ堂が破壊された。(小林史憲28頁)。伊勢丹の店舗も襲撃された。(関岡英之「中国を拒否できない日本」(ちくま新書・2011年)30頁)。

 10月17日、四川省綿陽市における反日デモは、事実上の反政府デモだったらしい。
日本車をひっくり返し、味千ラーメン店は破壊された。

 宮崎正弘によれば、日本の大使館のある北京、領事館のある上海、瀋陽、広州、重慶、青島、香港、出張駐在官事務所のある大連を避けている。いずれも、日本領事館の内、駐在日本人の少ない都市ばかりという(前掲72頁)。胡錦濤をはじめ、共産党政治局常務委員会の上層部は、ノーベル賞騒ぎのガス抜きのため、中国青年に反日暴動を許すという反日カードを切ったのである。