大家重夫
『久留米大学法学』第59・60合併号 1頁から44頁。平成20(2008)年10月31日 発行
佐村河内守氏の作曲とされている作品が、実は、新垣隆氏が作曲したものであると『週刊文春』平成26(2014)年2月13日号、2月20日号が報道し、『週刊新潮』2月20日号は、「袋叩きの『佐村河内守』はそんなに悪いか!」と弁護いたしました。
このいわゆる代作に関する事柄については、著作権法121条、123条が関係します。
このテーマについて、IT企業法務研究所(LAIT)客員研究員大家重夫の平成20(2008)年10月発行の『久留米大学法学』に掲載の論文がありますので、参考に供したいと思います。
※この論文の結論めいたことをいえば、佐村河内守氏が「佐村河内工房」あるいは、「佐村河内プロダクション」といった名称で、新垣氏の作品を発表していれば、著作権法上は、合法であったと考えます。
平成26(2014)年3月著者
菊池寛「少年日本武将合戦物語」の作者は実は、安藤健である(注1)とか、マルクス『資本論』向坂逸郎訳(岩波書店)の真の翻訳者は、岡崎次郎である(注2)とか、いわゆる代作がときどき新聞雑誌において報じられる。特に最近、栗原裕一郎、竹山哲、猪瀬直樹らによって、文学者の著作権侵害の事例と共に代作の事例が明らかにされて(注3)いる。
著作物を作成した著作者は、その著作物に自分の名前を付けるか、筆名を付すか、無名の著作物とするかの権利、すなわち著作者人格権である氏名表示権をもつ(著作権法―以下「法」という―19条)が、法は、著作物の原作品や書籍や雑誌などによって、公衆へ提供・提示する際、氏名、名称、雅号として周知のものが著作者として通常の方法で、表示されている者を「その著作物の著作者として推定する。」(14条)とし、ゴーストライターが執筆し、代作である場合、真の著作者(ゴーストライター)が名乗りを上げ、反証をあげて推定を覆すまでは、表示されている氏名の者を著作者として取り扱う。
ゴーストライターは、著作者人格権である氏名表示権をもつが、これを行使しない。不行使の特約を「表示されている者」または「出版者」と明示又は黙示で契約していると解される。著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡し得ないから(59条)、表示されている者は、いつゴーストライターから名乗りをあげられるか、不安定な立場にいる。本稿は、この代作を含む「偽りの著作者名の表示行為」について、現行著作権法はどう関わっているか、特に121条を中心に考えてみたい。
著作権法121条「著作者でない者の実名又は周知の変名を著作者名として表示した著作物の複製物(原著作物の著作者でない者の実名又は周知の変名を原著作物の著作者名として表示した二次的著作物の著作者名として表示した二次的著作物の複製物を含む。)を頒布した者は、1年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」
注l、
伊藤信男「著作権100年史年表」(1969年・文化庁)153頁。竹内洋「大学という病―東大紛擾と教授群像」(2001年・中央公論新社)131頁によれば、山田文雄教授について「少ない著書も、助手や後輩に書かせた。もっともはじめのうちは、自分の研究を手伝ってくれということで頼んだのだが」「君が全部書いてくれというあきれた要請だった。印税は執筆者に払ったが、著者名はちゃっかりいただくというていたらくだった。」とある。
昭和12年(1937年)に発行された藤村作「日本文学原論」(同文書院)の真の執筆者は、近藤忠義(藤村の女婿)で、左翼学者の近藤の名前であれば発行できない状況にあった。「日本文化総合年表」第六刷〈1996年・岩波書店〉の昭和12年文学欄では、近藤忠義「日本文学原論」とある。(大家重夫「唱歌『コヒノボリ』『チューリップ』と著作権―国文学者藤村作と長女近藤宮子とその時代」(2004年・全音楽譜出版社)34頁。
矢崎泰久「口きかん―わが心の菊池寛」(飛鳥新社)136頁は、佐藤碧や梶山季之は川端康成の新聞小説の代作をしたと書いている。
なお、佐藤碧「人間・菊池寛」(2003年・新風社)25頁、76頁、102頁、139頁、179頁によれば、佐藤碧は、菊池寛へ原稿を提出しているが、提出された原稿と菊池の作品を比較しなければ、複製か、翻案か、全く関係のない新規の作品であるかいえない。
竹山哲「『盗作疑惑』の研究」(2002年・PHP研究所)121頁以下によると、森鴎外「渋江抽斎」の「その百五」は、渋江保「抽斎歿後」の「明治十七年の部母の死去の事」に依拠した翻案(ないし複製)で、「阿部一族」も「阿部茶事談」の翻案(ないし複製)のようである(92頁以下)(以下、翻案、複製などの評価は、本稿の筆者大家重夫の意見である。)徳富蘆花「竹崎順子」は、蘆花の伯母竹崎順子の伝記であるが、順子の書翰、日記、和歌、教え子の追悼文がそのまま転載(複製)されていることを指摘している(163頁)。竹山は、猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」を引用し、井伏の「ジョン万次郎漂流記」や「黒い雨」に触れ、重松日記の使用権などにも触れている。すなわち、井伏「黒い雨」は、重松静馬の日記を中心にしたもので、井伏は重松の了解を得て、新潮社から15万円出させて、日記(被爆日誌)の「使用権(所有植を含む)を得たとされる(178頁)。「黒い雨」は、猪瀬直樹前掲書のいうように重松日記の複製ないし翻案のようである」(なお、重松静馬「重松日記」2001年・筑摩書房が発行されている。太宰治「斜陽」は、太田静子「相模曽我日記」の翻案で、太田は太宰没後、津島家から10万円を受領し、「太宰治の名誉及び作品に関する言動(新聞・雑誌に談話及び手記発表)を一切つつしむこと」と誓約したが、太田静子「斜陽日記」が「斜陽」の1年後に発表されている(212頁)。竹山哲は、16作品を取り上げ、原著作物に対して、「創作性」をどの程度加えたか、ある程度、定量的に比較して、それぞれを評価している(222頁)。
栗原裕一郎「〈盗作〉の文学史―市場・メディア・著作権」(2008年6月30日・新曜社)によれば、「『弟子の作品を自分の名で発表』とはすなわち『代作』だが、明治期の出版界では別段、珍しいことではなかった。」として、二葉亭四迷「浮雲」(明治20(1887)年)が最初、坪内雄蔵(逍遙の本名)名義で出版されたこと(36頁)、飯田青涼が徳田秋声の代作をしたこと(37頁以下)、泉鏡花「義血侠血」は、奥付は尾崎紅葉になっていて、紅葉が朱をいれたらしいが、はじめ紅葉と思われていたが鏡花であること(30頁)、小栗風葉の作品には、弟子の岡本霊華、真山青果、中村武羅夫の代作が多いこと(40頁以下)など豊富な実例を掲げる。伊藤信男「著作権100年史年表」109頁の久米正雄・安藤盛(さかえ)事件(48頁以下)についても詳細に触れている。
「女性」昭和2(1927)年2月号(プラトン社)に久米正雄「安南の暁鐘」が掲載されたところ、昭和2年1月21日東京朝日新聞は、「あれは己れが創作した」「憤慨する青年作家」の見出しで、久米への許へ無名の文学青年安藤盛(さかえ)が持ち込んだ原稿を作者に一言の断りもなく、題名を変え、自分の創作として公表したと報じて分かった事刊である(大村彦次郎「文壇栄華物語」(1998年・筑摩書房)247頁)。
大村は、このほか、昭和10年代、「日の出」で、久米正雄の名で出た「折鶴」という短編は、本名藤野庄蔵、筆名山岡荘八と述べ、同書88頁は、葛西善蔵「老婆」は、石坂洋次郎の代作(石坂の実質的な処女作)という(88頁)。
注2、
岡崎次郎「マルクスに凭れて60年―自嘲生涯記」(1983年・青土社)、186頁から189頁、191頁から196頁、274頁から285頁、298頁から303頁。野口均「マルクス・エンゲルス全集の生涯」(『諸君!』1991年12月号・ 文藝春秋社)、宮田昇「新訂 2版、学術論文のための著作権Q&A―者作権法に則った『論文文法』」85頁以下(2008年・東海大学出版会)。
注3、
猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」(2000年初版第1刷2001年第5刷・小学館)225頁によると、(昭和9(1934)年)文藝春秋4月号に掲載された井伏鱒二「洋之助の気焔」は、太宰治の作品に、井伏が導入部を付け加え、詩を書き込んだもので、複製ないし翻案のようである。同書238頁によると、昭和9年の帝大新聞に掲載の井伏鱒二「中島健蔵『懐疑と象徴』の批評」は、太宰治が代作したものという。
325頁以下によれば、井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」は、石井研堂「中浜万次郎」(明治33(1900)年・博文館「少年続本」シリーズ23巻)を「ほほ全編が文語体を口語体に直し」「分量的には7割が同一、残りの3割のうち2割は一般の歴史書に示されている当時の幕末日本の国際環境についての概説で」「シーンや会話を創作して読みやすく工夫したところは1割にも満たない。」という。
427頁以下によれば、中央公論昭和9(1934)年3月号(中央公論社・当時)掲載の井伏鱒二「青ケ島大概記」は、江戸時代に囚人近藤富藏が書いた「八丈実記」のなかの「伊豆国付八丈島持青ケ島大概記」を「種本」としているとする。「ほぼ6割はリライトしたもの」と猪瀬はいう(432頁)。
458頁以下によれば、井伏「黒い雨」は、重松静馬の日記を中心に重松の姪の日記、岩竹博の手記をリライトしたものの様である。
一方、346頁以下によれば、太宰治「女生徒」(昭和14(1939)年・砂子屋書房)は、有明淑子の日記をもとにした作品で、ただ「春から夏までの日記を素材としながら、たった一日の出来事に作り替えている 」(350頁)もので、これは、翻訳でもなく、既存の著作物から離れた「新作品」のようである。402頁以下によれば、太宰の「斜陽」は、太田静子の(4冊の大判ノート)の「日記」(407頁)を材料に書いたもので、これも太宰単独の著作物のようである。
注4、
最高裁平成18(2006)年1月20日判決(天理教豊文教会事件)判時1925号150頁判タ1205号108頁。大家重夫「発明」2006年10月号(発明推進協会)46頁参照。
注5、
外国の例であるが、英国の詩人バイロン(1788-1824)の作品とされるものが発表された。バイロンが見ると非常に拙劣で、低級であるため、自分の作品でないとしてこの詩の発行頒布差止を求める訴えを起こし、裁判所は認めている(伊藤正己「プライバシーの権利」(1963年・岩波書店)113頁による。Lord Byron v.Johnston, 2Mer.29,35 Eng.Rep.851)(1816)
世界的な旅行家、地理学会会員であるイタリー貴族の原告は、被告新聞社が、原告が書いたと称する旅行記を掲載したため、内容が俗悪であり、原告の社会的地位を失うとして訴訟を提起した。多数の裁判官は、名誉設損としたが、スコット判事は、記事に原告の社会的評価を低下させるものが含まれていないとして、原告の氏名の利用がプライバシー権の侵害とした(伊藤正己前掲書116頁)(D’Altomonte v. New York Herald Co., 154 App.Div.453,139 N.Y.S.200 (1913)
注6、
東京地裁昭和62(1987)年10月21日判決判時1252号108頁。齊藤博教授の評釈がある。「実名と酷似する著作者名を表示した出版と氏名権及び名誉権」判時1285号203頁(判評357号49頁)、「他人に無断で実名と酷似する氏名を著作者名として使用して、政界の内幕を曝露する書籍を出版した行為が、氏名権および名誉権を侵害するとして右書籍の出版、販売等の差止めを求める請求が認められた事例」発明1989年4月号(発明推進協議会)98頁。
注7、
他人の著作物に自己の名前を付する場合、後述のように水野錬太郎は、著作権侵害と同じと考えた。通常、他人の著作物の一部分を無断複製するケースが多いが、他人の著作物に自分の名前を付することは、他人の著作物を全部無断複製して、自分の名前を付することと同じであるからである。119条の偽作=著作権侵害という犯罪類型と121条の犯罪類型に該当する。この例も多い。前掲久米正雄「安南の暁鐘」は、無名の青年安藤盛の原稿を久米が安藤に無断で、題名を変え発表したものであった(栗原裕一郎前掲書50頁以下、伊藤信男「著作権 100年史年表」109頁、大村彦次郎「文壇栄華物語」(2009年・筑摩書房)247頁)。友松円諦の論文「社会経済思想」(岩波書店「東洋思潮」所収)は、門弟の大島長三郎論文を一部無断転用したもので、友松は大島に陳謝し、その責任を痛感し、一切の公職を辞した(昭和12(1937)年7月15日大阪毎日新聞、伊藤信男前掲書147頁)。