第3章 軍閥時代ー1945年、日本の敗退まで – 前編 - ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月16日

1911年(明治44年)、清で辛亥革命が起こる。

1912年、孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任する。清の宣統帝(溥儀)(1906-1967)が退位し、清朝が滅びる。袁世凱が北京で、中華民国代総統になる。

1913年、日本が中華民国を承認する。

1914年4月16日、日本では、政党である政友会が勢力を持ち始めたが、元老達は、明治維新の元勲だったが傍系というべき大隈重信を総理大臣にした。大隈は、1898年に一度総理をしており、二度目の総理で、外相に加藤高明(三菱財閥、岩崎弥太郎の女婿)を任命した。
1914年6月26日、オーストリア・ハンガリー帝国帝位継承者(皇太子)がセルビア 人の急進民族主義者にサラエボで暗殺されたことを切っ掛けに、第一次世界大戦が始まった。日英同盟を結んでいた日本は、ドイツ領の青島、膠州湾を占領する。

1915年(大正4年)1月、第二次大隈重信内閣は、袁世凱政権に対し、21カ条の要求をした。その内容は、山東省のドイツ権益を日本が譲り受ける、日露戦争で日本が  ロシアから得た旅順・大連の租借権の期限を99カ年延長する等であった。
5月9日、袁世凱政権は、中国中央政府に政治・財政及び軍事顧問として有力な日本人を雇傭するという第5号を除き、要求を承諾した。
中国民衆は、大いに憤激し、抗日運動が始まった。東京の大学、専門学校に在学していた中国青年は約5000人であったが、殆ど全員、帰国するか米国へ転学した(前田蓮山「歴代内閣物語(下)」(時事通信社・1961)105頁)。

尾崎護「吉野作造と中国」(中公叢書・2008年)は、「対日二十一条要求」の経緯をほぼ3頁にわたり述べた後、吉野作造が、当時中国の学生達の反日デモについて、「その行動はともかく、趣旨について理解を示した」1人であるという。すなわち、吉野は(日本では、政権を握っている「侵略の日本」と、日本国民の多数の「平和の日本」とがある。中国学生達が反感の矛先を向けているのは「侵略の日本」で、この事を知ったら、中国の反日は止む」であろう。「冷静に彼等の真の要求を考えて見る時に茲に彼我の間に、共通のある一つの生命の発芽を認めることが出来る。」とし、日本には、「侵略の日本」と「平和の日本」の2つがある)と論じたという。(「支那の排日的騒擾と根本的解決策」吉野作造選集(岩波書店)9巻245頁)。尾崎は、日本敗戦の時、中国要人が、「悪いのは日本の軍閥」で、「日本国民」でない、との発言に「吉野作造の議論を思い出させる」として、「吉野作造と中国」を著した。
 西尾幹二は、「『対日二十一カ条』要求のあのころから」日本人の驕り「ぼつぼつ始まり」、「日本人の倨傲と油断はあのころから一貫して敗戦までつづく」(「日本はナチスと同罪か」(ワック・2005年)45頁)という。たしかに日本人は、日露戦争に勝利し、日本全体が驕慢になっていた。

 ただ、渡辺望によると、孫文たち中華革命党=国民党は、日本が自分たちでなく袁世凱政権に「日本人政治・軍事顧問団雇用要求等の5号要求」をなしたことに嫉妬したのである、孫文が激怒したというのはフイクションであるとする。孫文へ日本人は支援金を出しても、使途不明金が多く、遊蕩兒であったという。渡辺説に立てば、我々は、大隈21ケ条要求について、何等反省は必要でない(「日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人」(ビジネス社・2014年)78頁以下、特に97頁)。
一方、袁世凱代総統は、帝制を復活して、自ら皇帝になろうと計画した。
1915年10月28日、日本は、英国、ロシアの同意を得て、3国共同して、袁世凱に帝制の延期を勧告した。袁世凱は、勧告は感謝する、といいながら、12月、国民請願の形式で帝位につくことを承諾、帝制実現に向かっていた。ところが、南方派が反対、動乱が起こった。
 1916年2月、袁世凱は、自発的に即位を取消し、動乱は収まったものの、袁世凱自身が、同年6月6日、58歳で病死した。黎元洪が大総統についた。
 国務総理に就いたのが段祺瑞である。
1916年10月16日成立の寺内正毅内閣は、大隈内閣の外交の失敗を暴露した。
「寺内首相が対支外交に関し、大隈内閣はあるいは南方を助け、あるいは北方を助けたが、現内閣はこれを改め、支那の内政には関与しない方針である」とのべた(前田蓮山「歴代内閣物語・下」160頁)。中国に対し、経済提携で共存共栄主義をとるとして、対支外交の改革を図った。
しかし、「1917年1月20日、日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行が、中国交通銀行に借款500万円供与の契約を締結(西原借款の始め)」(「日本史総合年表」(吉川弘文館・2001年)556頁)とあるように、寺内正毅首相、勝田主計蔵相、本野一郎外相(1918年4月まで)は、総額1億2200万円(1億4500万ともいう)を寺内正毅の知人、実業家、西原亀三(京都府福知山市出身、1873-1954)を通じて、北京政府(段祺瑞)に貸与した。一方、日本は、南の孫文へは、1916年2月20日、久原房之助と孫文の間に70万円の借款が成立とある(前記年表554頁)。
日本は、袁世凱(のち段祺瑞)と孫文に、二股をかけた。日下公人は、「日本人にしては上出来だった。」大総統になりそこねた「孫文は、革命いまだならずといって広東に逃げて帰り、それからまた北伐を始める。日本はその北伐の金を貸したし、北京にも金を貸した。両方に金を貸した。要する日本は、中国は統一しないだろうと見たのである。」(「お金の正体」(KKベストセラーズ・2007年)101頁。

 日本は、日露戦争(1904~1905)へ勝利した結果、南満州東部内蒙古に「特殊権利と特殊地位」をもっていた(加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」岩波新書・2007年)30頁)。
ポーツマス条約5条でロシア帝国政府のもっていた旅順、大連並びにその附近の領土、水域の租借権は日本に移転譲渡され、1907年(明治40年)、南満州鉄道会社が発足し、1915年、清国政府から製鉄所の設立認可を得、1918年、鞍山製鉄所が設立された。
加藤陽子前掲書によれば、1920年代、日本が日露戦争勝利で得た「満州、蒙古における特殊権利と特殊利益」の範囲を巡って、国際的、国内的に論争が行われている。
 2016年の今日、中東で、イスラムには、「イスラム国」(IS)が出現し、サイクス・ピコ協定の無効を叫んである。この協定は、1916年(大正5年)、イギリス人マーク・サイクスとフランス人フランソワ・ジョルジュ・ピコが、中東のシリア、イラク、ヨルダン、パレスチナを通る国境線を線引きしたものである。ロシアも当初、参加したがロシア革命で離脱した。日本は、当時この秘密協定を知らなかった。知っていれば、イギリス、フランスへは、日本は満州、華北などの地域で、同じような「線引き」をしたいと主張したであろう(サイクス・ピコ協定については、内藤正典「イスラム戦争」(集英社社新書・2015年)167頁、国枝昌樹「イスラム国の正体」(朝日新書・2015年)104頁)。

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満州事変

1931年(昭和6年)9月18日、日本の陸軍(関東軍)は、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した。関東軍は、この爆破事件は張作霖の長男張学良(1901-2001)(注12)の中国、東北軍によるものであるといい、奉天を占領した。「満州事変」である。満州事変を起こした中心人物は、石原莞爾(1889-1949)参謀本部作戦課長である。 わずか1万500人の関東軍が全満州を占領した。満州の民衆の支持があった。数十倍の張学良軍閥の軍隊がいたが、民衆の支持がなかった。
27歳の若き将軍、張学良が、父張作霖の領地と軍隊を引き継いだ。「若い張は軍閥というよりプレイボーイだった。彼の統治は実は実効性がなく、軍に対する統制もとれていなかった。そして『共産系匪賊』が混乱に輪をかけていた。事態をさらに悪くしたのは、若い張が親日より親英だったことである。」(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」(メデイア・ファクトリー・1995年)292頁)。
6月8日、蒋介石の北伐軍、北京に無血入城する。北伐終結する。北京を北平に改称する。
 張学良が国民政府へ合流する。
満州事変が起きて喜んだのは、共産党の紅軍で、このとき、江西省、南昌にいた蒋介石が紅軍と戦っていた。
1931年11月7日、中華ソビエト共和国が江西省瑞金に成立し、毛沢東が臨時政府の主席に選ばれた。

満州国

宮脇淳子「世界史のなかの満州帝国」(PHP新書・2006年)によれば、17世紀はじめに、今の東北地方にジュシェンという種族が住んでいた。ジュシェンは、「女直」と漢字で宋と朝鮮の文献に書かれた。ジュシェンの1部族長ヌルハチは、1616年、ジュシェン種族を統一し、「後金国」を建てた。ヌルハチを継いだホンタイジは、元朝ハーンの玉爾を手に入れ、1635年、ジュシェンをという種族名の使用を禁止し、マンジュを呼ぶように命じた。1636年、瀋陽で、ホンタイジは、満州人、モンゴル人、高麗系漢人の共通の皇帝に就任し、国号を「大清」とした。清朝の建国である。
1644年、清朝は、首都を瀋陽から北京に移した。
1912年2月、清の冝統帝溥儀が退位した(袁世凱が中華民国大総統に着いた)。
地名としての「満州」は、19世紀はじめに日本人高橋景保作成の「日本辺界略図」がシーボルトに持ち帰られ、ヨーロッパで知られた。
1932年3月、「満州国」建国宣言。
1933年2月23日、満州国を隔離する緩衝地帯として、熱河省を確保するため関東軍は、熱河省を本格的に攻撃すると中国軍隊は、一部を除き退却した。

塘沽協定

関東軍は、華北通州を占領して、北京(北平)に迫り、「塘沽(タンクー)停戦協定」を結んだ。当事者は、関東軍参謀副長・岡村寧次と中国軍代表北平分会総参議・熊斌(ゆうひん)である。関東軍は、東北地方の「地方当局」で、中国側は、「北平政務整理委員会委員長・黄郛」と「軍事委員会北平分会委員長代理・何応欽」という形式である(加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(岩波新書・2007年)173頁)。
この協定の内容は、長城の南を非武装地帯とさせ、北京周辺から中国軍が撤退したのを確認後、関東軍も撤退すること、治安維持は中国警察が当たること等であった。
 福地惇高知大名誉教授は、「この協定の重要な点は、蒋介石政府が満州国政府側と郵便・電信・陸上交通・関税業務に関する協定を結んで、事実上、満州国を承認したこと」といわれる(西尾幹二+現代史研究会「自ら歴史を貶める日本人」(徳間書店・2012年)107頁)。
 この「塘沽協定」以後、1937年7月7日の盧溝橋事件まで、日本と中国軍の戦火は止んでいる。従って、田原総一朗は。(1931年の満州事変から1945年日本敗戦まで)を「15年戦争」というのは誤りであるという(「日本の戦争」333頁)。
1934年3月、宣統帝(溥儀)を執政として「満州帝国」の建国、宣言が行われた。
この満州国は、1945年8月17日、満州国皇帝溥儀が退位し解体する。約13年間の平和な国で、年100万人もの流民が移住した。

西安事件

 1936年12月12日、満州国から(日本軍に追われ)逃げてきた張学良が楊虎城将軍とともに西安で蒋介石を監禁し、内戦を停止すること、一致して抗日をせよ、と迫った。1936年12月16日、中国共産党を代表して、延安から周恩来が西安に到着した。張学良、蒋介石、周恩来と会談し、蒋介石は自身の解放と引換に、内戦停止、抗日に同意する。「西安事件」である。
 1936年11月25日、日本は日独防共協定をベルリンで結んだ。これ以前も、これ以後も、蒋介石軍に、ドイツ軍事顧問団がつき、軍事的支援をしていた。
 1937年7月7日夜、「支那事変」と呼ばれる戦争が起こった。北京郊外の盧溝橋附近において、夜間演習中の日本軍が、数発の銃撃に遭い、中国軍に攻撃をし、日中戦争が始まった。劉少奇の指揮する中国共産党の部隊が、日本軍への最初の銃弾を発したという説がある。福井義高氏はソ連の特務機関による犯行説を紹介されている(「正論」2016年5月号88頁)。岡田英弘「この厄介な国、中国」(ワック・2001年)40頁は、「中国共産党の仕掛けた謀略」という。
日本は、同年7月28日、北平、天津で、国民党軍を攻撃し、7月29日、華北の通州で、日本軍留守部隊約110人、婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、約230名が虐殺された。通州事件である。
同年8月9日、大山勇夫中尉、齋藤与蔵一等水兵、上?飛行場付近で中国保安隊に射殺された。8月13日、上?で交戦が始まった。第二次上海事変ともいう。西尾幹二・現代史研究会「自ら歴史を貶める日本人」(徳間書店・2012年)280頁によれば、「盧溝橋事件の直後に中ソ軍事密約が締結されて、武器やその他の援助がソ連からなされ、ドイツからは70人の軍事顧問団が中国に入り、トーチカをはじめ膨大な数の近代兵器を提供していた」という。宮崎正弘は「上海事変というのは、実は、日本対蒋介石ではなくて、日本対ドイツの戦いだった」という(宮崎正弘・川口マーン恵美「なぜ中国人とドイツ人は馬が合うのか?」(ワック・2014年)198頁)。
同年8月13日、日本政府は、閣議で予備役に編入されていた中国通の松井石根大将を上?派遣軍司令官に任命し、「上?附近の敵軍の掃蕩」と「上?居留民の生命の保護」を名目に中国と戦う決意を表明する(中西輝政は「あの戦争になぜ負けたのか」(文春新書・2006年)234頁において、昭和12年8月13日から昭和20年9月2日までの戦争全体の名称を「大東亜戦争」という名称が用いられるべきだ、とする。)。
同年8月15日、政府、中国国民政府を断固膺懲と声明、戦争が開始された。日本は、4万人の死傷者を出して、同年12月13日、日本軍、南京を占領する。
 この時、大虐殺事件を起こしたとされる。渡部昇一は、「南京での戦闘で死んだ兵を含めて3万ぐらいなら考えられる数字だと思う」「一般市民に対する虐殺は限りなくゼロに近い」といわれるが、同感である(「アメリカが畏怖した日本」(PHP新書・2011年)91頁、93頁)。中国は、30万あるいは40万人虐殺されたと主張している。
 松井は、のち、東京裁判において、(日本と支那との戦いは、アジア一家の兄弟喧嘩である。一家の兄が(日本を指す)が、乱暴を止めざる弟(中国を指す)を打擲するに等しい、中国を憎むにあらず、可愛さ余っての反省を促す手段たるべきことで、自分の年来の信念である)と東京裁判で述べた。
この論理、比喩は、今では少数派だが、明治維新を経て、自信をもった当時の日本人には、当然の常識であった。ただ早坂隆「松井石根と南京事件の真実」(文春新書・2011年)88頁が指摘するように、日本人こそが「弟」であり、「子」である、と当時も今も、中国人は思っていたし、今も思っているのだ。松井は「純情な親中国派」だったが、現代中国で、「日本のヒットラー」とされている(渡辺望前掲書101頁)。
 わたしは、「日本は、西洋列強により教えられた富国強兵、力は報われるという帝国主義」を、早速、朝鮮や中国を相手に実習したのだ。ただ、「朝鮮、中国に対して良かれと思い日本流に変容させたことが理解されなかった」というべきであったと思う。徳富蘇峰は、「日本は英米独露などの行為の下手なまねごとをして失敗したが、それはちょうど烏が鵜のまねをして溺れたと同然である。『日本人の技量の拙きを嘲り、もしくは笑うことは勝手であるが、これを責め、これを咎め、これをもって日本を罪せん』とする資格は、欧米にはないはずだ。」といった(米原謙「徳富蘇峰」(中公新書・2003年)235頁)。
ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」(伊藤延司訳、メデイアファクトリー・1995年)は、「近代日本は西洋文明を映す鏡を掲げて、アジアの国際関係に登場してきた。私たちは日本人の『本性に根ざす伝統的軍国主義』を告発した。しかし、告発はブーメランなのだ。」(168頁)。
中国国民党と日本軍との戦争は、宣戦布告なき戦争で、両者に都合がよかった。日本は、アメリカから物資を輸入でき、中国も物資や武器をアメリカから与えられたり、輸入でき、便利であった。ただ、日本人は、1941年4月、米軍航空師団フライング・タイガー(軍籍を外す手続きしたパイロットからなる)が中国国民党軍につき、日本軍を攻撃していたことは、知らなかった(前田徹・「正論」1999年10月号、西尾幹二「国民の歴史」(産経新聞社・1999年)583頁)。

注12
張学良は、台湾で李登輝大統領就任まで、軟禁状態で、のちハワイのホノルル市に移住、2001年、100歳で死去した。張学良は、満州事変のあと満州軍閥から追放される。当時の張学良は、昼は眠り、夜は女遊びと賭博と阿片に凝り、精神不安定だったという。黄文雄「満州国の遺産」(光文社・2001年)169頁が引用する趙欣伯「満州国史」。