第6章 江沢民総書記の時代 ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月21日

鄧小平は、胡耀邦、趙紫陽を使い捨てた後、陳雲の推す江沢民を選んだ。江沢民は、日江世俊の3番目の子で、叔父江上青の養子になり、南京中央大学(のち、上?交通大学に統合される)に学んだ。その出自から、用心深く、き真面目な有能な官僚であった。とくに特定の派閥に属さず、鄧小平は気に入った。
江沢民の祖父は医者で金持ちで、揚州を中心に揚子江を上下する貨物船を船会社のオーナーの1人で、その長男江世俊である。鳥居民「『反日』で生きのびる中国」(草思社・2004年)164頁は、江の5番目の弟、末弟である江上青(本名、江世候)は共産党に入っていたが、1939年、(匪賊に)狙撃され、28歳で死亡した。江世俊は、次男の江沢民を弟、江上青の跡取りに据えた。江上青の友人に王道涵もいて、江沢民は、抗日革命根拠地の創始者の遺児ということになった。鳥居民は、江沢民の父親江世俊は、「文化人といった生活を送り、生業を持たなかった。」(前掲書166頁)とした。
2015年、読売新聞記者を退職した加藤隆則「習近平暗殺計画」(文藝春秋・2016年)32頁は、「江氏の父親が抗日戦争時、日本に協力した『漢奸(売国奴)』」「実父の江世俊が日本軍の反中宣伝機関の高官」であったこと、江沢民の父親が漢奸で、江沢民に経歴詐称があるとの論文を発表した呂加平氏が懲役10年の刑に服していたが、習近平が特赦を認め、2015年3月、党幹部の内部会議で呂氏釈放を報告させた、と報じた。
「江氏が必要以上に反日的態度を表明してきたのも、漢奸の血筋を負い目に思う屈折した感情の裏返しであるとの指摘がある。」と加藤隆則氏が述べるが、江沢民が、総書記在任中にこの情報が日本人に知られていれば、日本、日本人は、心理的に優位な気持ちで接することが出来たと思う。

1993年(平成5年)3月

党総書記  江沢民。
国家主席  江沢民。
党中央軍事委主席、江沢民。
総理   李鵬。
政治局常務委員。江沢民、李鵬、喬石(党中央政法委員会書記のポストを任建新最高法院院長へ、自身は全国人民代表大会常務委員会委員長へ転出)、李瑞環(全国政治協商会議主席へ)、朱鎔基、劉華清(1916年生、当時78才)、胡錦濤(1942年生、52才)。

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江沢民は、国家主席に就任した。「江沢民が国家主席だった頃、朱鎔基が首相」に決定した。「この朱鎔基の起用を決めたのは、鄧小平の三女、鄧榕」であった。「鄧榕が朱鎔基を面接し、『この人は大丈夫』と父・鄧小平に報告して決めた。」(注44
 まだ、江沢民には、首相を決める力がなかった。

1994年(平成6年)

 中国共産党宣伝部「愛国主義教育実施要項」を公布する。江沢民政権5年になり、反日教育はじまる。毛沢東、鄧小平のような大きな功績がなく、カリスマ性もない江沢民が、13億の人間を束ね、掌握するためには、中国共産党こそが、仇敵日本から中国を救った、尖閣諸島は中国の領土である、と日本を悪者にし、人々の注意、関心を「反日」へ向けさせる政策をとった。また、この頃から、欧米政府が対中制裁を緩和し、日本に依存しなくても良くなったからだと関岡英之が指摘する(注45)。
 鳥居民は、当時、中国に駐在していた日本のジャーナリスト、マスメデイアは、江沢民が「反日教育」を始めた時、「見て見ぬふりをし、取り上げないようにしてきた」「及び腰で曖昧な報道、解説をしてきた」と述べている。(注46
 9月開催の党14期中央委員会第4回全体会議は、中国の改革・開放について「鄧小平同志を核心とする第2世代の中央集団指導部によって創造、開始され、江沢民同志を核心とする第3世代の集団指導部が今、まさに継続して進めている偉大な工程」と表現し、公報に載せた。鄧小平は、もう判断力を失い、江沢民が実権を握った。
 1994年、朱鎔基は、日本を訪問し、科学博物館を訪問している。

1995年

 7月23日 江沢民と伊藤忠の室伏稔社長との初会見が行われる。翌日の「人民日報」は大きく報じる(青木直人「誰も書かない中国進出企業の非情なる現実」(祥伝新書・2013年)145頁)。

1996年(平成8年)

 1996年5月末、ニューヨーク・タイムズ記者ニコラス・クリフトフ(天安門報道で、ピューリッツア賞受賞)は、新潮社から「新中国人」を出版した。1994年「中国は目覚める」の日本語版である。
 クリフトフは、「日本の読者へ」として、「中国はナショナリズムをかき立て、資金を軍備増強に投じつつある。日本人は今、それと同様の悲劇的結果がもたらされる危険性をはっきり認識していないように思われる。日本の多くの人に、中国についてもっと知ってほしいと思う。」。クリフトフは、6月3日朝日新聞に、「中国人の大多数が抱く日本に対する敵意に、大部分の日本人がほとんど気付いていないことに、私は衝撃を受けている。中国で、中国語を学ぶ際、『恨』という漢字は『われわれ中国人が日本人に対して抱く感情』としばしば定義される。」と書いた。鳥居民は、クリフトフのこの、「恐ろしい」文章を紹介し、毎日新聞伊藤光彦記者のみがクリフトフの文章を読み愕然としたが、新聞(産経夕刊を除く)、中国通の人々が全く無視したこと、を問題とした。(注47

1997年(平成9年)

 2月19日、鄧小平が北京で死去した。92歳。洪秀全とおなじく客家(ハッカ)出身である。エズラ・F・ヴォーゲルは、鄧小平の一族は、200年前、広州から四川省に行っており、客家の可能性もあるが、本人が明言しないので、「鄧小平」(本編)には書かなかった、と「鄧小平」(聞き手橋爪大三郎)(講談社現代新書・2015年)39頁で述べている。鄧小平は、毛沢東には及ばないが、独特のカリスマ性のある「第2代皇帝」であった(注48)。
周恩来は、有能ではあったが、毛沢東の家臣に終始し、そのため失脚をしなかった(注49)。
第15回党大会、中共中央委員会委員、中央委員会候補委員が選出される。
中央委員193名には、李克強は入っているが、習近平、薄熙来は落選した(注50)。
9月
党総書記  江沢民。
国家主席  江沢民。
党中央軍事委主席、江沢民。
総理   李鵬。
政治局常務委員。江沢民、李鵬、朱鎔基、李瑞環、胡錦濤、尉建行、李嵐清。

1998年(平成10年)

3月、全人代は、正式に、朱鎔基が国務院総理に就任することを発表した。朱鎔基は、記者会見で、今後5年間の経済発展目標と改革について概括、発表した。
朱鎔基は、江沢民の上?市長の後任であるが、決して、仲が良いわけでない。江沢民は、むしろ、競争相手として警戒していた。朱鎔基は、「独立独歩で識見の優れた経済の実力者」である。江沢民は、朱鎔基が李鵬の後継首相になるのを妨げようとした。
 1996年、14期六中総会は、国営企業の深刻な赤字を厳しく批判、責任追及した。
 1997年3月の全人代では、形勢が逆転した。江沢民の意を受けた曾慶紅、宋平、李嵐清、呉邦国、李瑞環、姜春雲らが、朱鎔基を総理にさせまいとした。ところが、全人代で、各地の全人代代表等が、(姜春雲、曾慶紅が、「朱鎔基が所詮、右派で政治的に信用できないなどとのニュースを流すのは党規違反でないか、個人攻撃でないか」)と質問攻めをはじめた。江沢民側は、狼狽し、喬石は朱鎔基擁護に廻り、最終的には、江沢民は、1997年5月、中央党学校で「朱鎔基の国有改革と株式制に対する見解」を受け容れることを表明、和解した(注51
 朱鎔基は、1998年、国有企業のリストラへの大号令をかけ、中央政府の役人の半数の首切りを公約通り年内に断行した。朱鎔基へ怨嗟の声が上がった(注52)加藤鉱によれば、地方政府関係者の恨みを買ったため、朱鎔基の妻の父親が殺された(注53

1999年(平成11年)

4月24日から25日にかけて、中国内陸部から数百台の車両が北京の中南海を埋め尽くした。夜明けには、1万名から1万5000名の抗議者のデモ隊が現れた。宗教団体法輪功(創始者、李洪志)によるもので、数日前天津で逮捕された法輪功信者の釈放を求める抗議行動であった(柏原竜一「中国の情報機関」(祥伝社・2013年)164頁)。
5月7日午後11時。米軍機が、ベオグラードの中国大使館を誤爆する事件が起こった。新華社通信の特派員2名、光明日報の記者1名の3名が死亡し、約30名が負傷した。セルビア人勢力に包囲されているコソボ地方を援助し、コソボ解放軍の独立ゲリラを支援する予定であった。当時のクリントン大統領は、江沢民に謝罪した。人民解放軍の張万年(中央軍事委員会副委員長)は、江沢民に中国政府の姿勢は軟弱である、と批判した。
7月9日、台湾の李登輝総統が中台関係は「国家と国家の関係」と発言、中国は反発した。
7月15日、アメリカは、台湾問題で中国が軍事力による威嚇に訴えないよう警告した。
7月22日、中国政府は、気功集団「法輪功」の運営母体である法輪大法研究会を非合法組織と認定し、活動を禁止した。法輪功の信者2万人が中国政府のある北京市の中南海をとり囲み座り込みをし、そのため江沢民が「邪教」とし、非合法にした(注54

2000年(平成12年)

 朱鎔基首相、訪日前に「歴史認識で日本を刺激してはならない」と発言した(注55)。
 6月ⅰ9日、竹下登元首相が逝去した。竹下の葬儀には、中国から元外相の銭其深副総 理のみが出席した。

2001年(平成13年)

 4月、「靖国参拝」を公約にして、小泉純一郎が87代の総理大臣になった。
 8月13日、小泉純一郎首相は靖国神社に参拝した。小泉は、以後、毎年靖国神社に参 拝し述べ6回の参拝をした。
 有名女優の趙薇が、商業目的で、日本軍旗(旭日旗)のデザインに似たファッションの 洋服を着た。中国国民からメデアやインターネットで非難された(注56

2002年(平成14年)

11月、第16回党大会で、胡錦濤が党の総書記に選ばれた。
総書記   胡錦濤
国家主席 江沢民
党中央軍事委主席 江沢民
総理     朱鎔基
政治局常務委員 胡錦濤、呉邦国、温家宝、賈慶林、曾慶紅、黄菊、呉官正、李張春、羅幹。
共産党中央委員会政治局常務委員は、7人であったが、前任者江沢民は、9人に増やし、影響力を維持しようと考えた。(注57)胡錦濤は、2002年、トップについたが、前任者の江沢民は、なお発言権を有し、2012年までの10年間、1人で、自由に振る舞えなかった。2007年、胡の後任に習近平の就任決定がきまり、習近平がトップになると、胡錦濤は身を引き、周囲に好印象を与えた。

2002年

 馬立誠論文が公表された。人民日報・高級評論委員の馬立誠(1946年、四川省成都生まれ)が、「対日新思考」と題する日本との関係改善を呼び掛けた論文を「戦略と管理」(2002年12月発行)(隔月誌2002年6号)に発表した。執筆前、13日間、日本を訪問、自民党町村信孝幹事長、民主党岡田克也、共産党山口富男に会っている。論文は、胡錦濤執行部が対日政策方針を正式に決定する前であった。論文は、日本の「文藝春秋」「中央公論」の2003年3月号に掲載された。2006年、文春文庫でも発行された。中国人民大学国際関係学院の時殷弘教授も、同年4月「中日接近と『外交革命』」を「戦略と管理」へ掲載した。胡錦濤の了承のもとに発表されたと思われる。
しかし、江沢民の影響力が強っかったこと、2003年1月、小泉首相の3回目の靖国参拝の歴史問題などがあり、対日関係が改善する方向に向かわなかった。清水美和「中国が『反日』を捨てる日」(講談社+α新書・2006年)は、92頁から116頁にかけて、「対日新思考」論争とその意味を論じている。(注58
馬立誠論文は、石原慎太郎、高橋史朗、小堀桂一郞、小林よしのりなどをよく読み込んでいた。小林よしのりの主張について、当時、新しい歴史教科書に採用されず、「日本の市民が彼らの主張に対し大いに懐疑的となり距離を置いている」としている。馬立誠のような人が多く現れ、常時、日本人と率直な会話が行われればよいと思う。

注44
黄文雄・石平「『中国の終わり』の始まり」(徳間書店・2012年)84頁。

注45
西尾幹二責任編集「中国人国家ニッポンの誕生」(ビジネス社・2014年)74頁。

注46
「鳥居民評論集 現代中国を読み解く」(草思社・2014年7月23日)179頁。

注47
鳥居民「『反日』で生きのびる中国ー江沢民の戦争」(草思社・2004年2月27日)
 9頁から22頁。

注48
橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司「おどろきの中国」304頁。

注49
文化大革命中、上?の指導者であった、徐景賢(2007年死去)の「徐景賢最後回想」(2013年香港で刊行)に林彪死後、毛沢東が周恩来を叩くことにし、周恩来批判会議を開いたこと、周恩来が自己批判したこと、妻の鄧穎超は、同じく批判された葉剣 英とは、連名で批判会議の議事録の焼却を願い出て、華国鋒の承認を得、関連資料は鄧 穎超の面前で、周恩来の元秘書らにより焼却されたという(産経ニュース、2015年3月24 日、元滋賀県立大教授荒井利明による)

注50
遠藤誉「チャイナ・セブン」(朝日新聞出版・2014年11月)109頁は、この1997年当時、太子党、紅二代は、非常に嫌われていた、からだという。

注51
楊中美?、河野徹訳「朱鎔基ー死も厭わない指導者」(講談社・1998年)220頁)。

注52
矢吹晋「激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実」(日経BP社・2007年)229頁)。

注53
宮崎正弘・大竹慎一・加藤鉱「中国崩壊で日本はこうなる」(徳間書店・2015年)135頁)。

注54
宮崎正弘・川口マーン恵美「なぜ、中国人とドイツ人は馬が合うのか?」(ワック・2014年)126頁。柏原竜一「中国の情報機関」(祥伝社新書・2013年)164頁。
 法輪功の創設者は、李洪志(父親は吉林省出身の音楽家・知識人)、1992年、法輪功を創設し、指導者になる。アメリカへ亡命。

注55
馬立誠「〈反 日〉からの脱却」(中央公論新社・2003年)393頁。

注56
馬立誠「〈反日〉 からの脱却」(中央公論新社・2003年)8頁。

注57、それまでは「7名」の常務委員だったが、江沢民が影響力を残したいため、2002年の第16回党大会開催前夜の北戴河会議において「9名」に増やした。遠藤誉「チャイナ・ナイン」(朝日新聞出版・2012)46頁。同「完全解読『中国外交戦略』の狙い」(ワック・2013年)84頁。胡錦濤は、中共中央政法委員会(周永康書記)を「ナイン」から外し、権限を低くさせたかった。

注58
馬立誠「反日からの脱却」(中央公論新社・2003年)355頁、飜訳解説の杉山祐之論文参照。