第5章 鄧小平の時代 ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月20日

1978年(昭和53年)

 この年、三中全会が開かれた。
三中全会が開かれる前、谷牧(1914-2009)の視察団を海外へ派遣した。日本の岩倉具視使節団を模倣したもので、華国鋒が決定したとエズラ・ヴォーゲルは述べている(前掲書160頁)。
 第11期全人代第3回会議の開催の前にして、1978年10月22日、鄧小平副総理一行が、日本を訪問した。10月23日、福田赳夫総理と、中日平和友好条約の批准書の交換式、黄華外相と園田直外相が批准書に署名し、批准書を交換した。このとき、鄧小平は、尖閣問題について「棚上げ」を明言した。そのあと、鄧小平と卓琳夫人は、昭和天皇主催の昼食会に臨んでいる。10月26日、鄧夫妻は、新幹線ひかり81号で関西に向かった。「速い。誰かが押しながら走っているようだ」と語り、今回の訪日は「日本に教えを請うため」と記者団に率直に語った。
大阪の松下電器産業のテレビ工場を訪問、松下幸之助(1894-1989)に中国進出を要請した。松下は、これに応え1989年、中国に工場を作り、中国に貢献、胡錦濤ものち、パナソニック本社を訪問する。(中国人は、経済力を付けると豹変する。のち、2012年9月15日、山東省の黄島区のパナソニック電子部品工場が襲われた。全日空がホテル「北京新世紀飯店」を建てたが追出された。結局、日本、日本人は、「お人好し」であったことを思い知る(青木直人「誰も書かない中国進出企業の非情なる現実」(祥伝社新書・2013年)44頁)。)
 1978年11月10日から12月15日まで、中央工作会議が開かれ、ここで、実質的決定がなされ、同年12月18日から22日までの第11期全国代表者大会第3回中央委員会全体会議(11期三中全会)が改革開放、文化大革命からの訣別、第1次天安門事件の周恩来追悼デモは反革命でなく革命的行動であると名誉回復し、「二つのすべて」を批判し、現代化へと路線変更した。華国鋒が召集した2つの会議であったが、鄧小平が実権を手にした(エズラ・ヴォーゲル前掲書152頁)。
陳雲が党副主席となり、彭徳懐、陶鋳らの名誉回復を行った。文化大革命と訣別した。

1979年(昭和54年)

2月17日、鄧小平の指示で、中国軍60万人の軍隊が国境全域でベトナムに侵攻する。
3月5日、全面撤兵開始を宣言した。6万人の死傷者を出し敗退した。長谷川慶太郎・小原凡司「米中激突で中国は敗退する」(東洋経済新報社・2016年)31頁は、中国の軍隊間の言語が共通でなかったのが原因という。

1980年(昭和55年)

2月現在。党主席(総書記)は、華国鋒、党中央軍事委員会主席、華国鋒。
総理。華国鋒。
政治局常務委員。華国鋒、葉剣英、鄧小平、李先念、陳雲、胡耀邦、趙紫陽。
2月、第11期五中総会で、劉少奇の名誉回復が行われた。
同年8月、華国鋒が「毛主席は文革期に大きな過ち」と発言した。
同年8月、鄧小平が「毛沢東は功績第1、誤り第2」と発言した。
同年8月、全人代第3回会議、華国鋒が総理辞任、後継に趙紫陽を選出した。
9月。総理が華国鋒から趙紫陽へ。他は変更なし。
鄧小平はこの1979年頃から、1997年2月19日に死去するまでのほぼ18年間、中国の最高実力者であった。興味を引くのは、鄧小平は、中央軍事委員会主席にはなったが、党主席、国務院総理にはならずに、実権を握り、権力を行使したことである。
毛沢東は、華国鋒を後継者として指名したが、鄧小平は、華国鋒が無力であり、自分の能力が勝り、自分が最高位に就く方が中国あるいは共産党、国民のためになるとして、合法的にそのように取りはからった。毛沢東路線から見れば「簒奪した」といえよう。

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1981年(昭和56年)

1月、林彪、4人組の裁判の判決が出る。
同年6月、第11期六中総会、「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」を採択。
     華国鋒、副主席に降格。胡耀邦は、党主席に就任した。
党主席(総書記)胡耀邦。
党中央軍事委主席、鄧小平。
総理。趙紫陽。
政治局常務委員。胡耀邦、葉剣英、鄧小平、趙紫陽、李先念、陳雲、華国鋒。

1982年(昭和57年)

 5月31日から6月5日まで、日中国交樹立10年を記念し、趙紫陽首相が日本を訪問した。中国で連日報道され、親日の報道がされていた。
6月26日、日本の朝日新聞が教科書検定で「侵略」という表現を「進出」に書き直させている、と報じた。この新聞報道を多くの新聞が追随して報じた。しかし書き換えが行われた教科書は一冊もなく、誤報であった。渡部昇一上智大学教授が「萬犬虚に吠えた教科書問題」(「萬犬虚に吠える」(文藝春秋・1985年)49頁所収)に指摘し、収まった。
日本での報道が収まった1カ月後、中国の人民日報が、この教科書問題について、「この教訓はしっかり覚えておくべきだ」と報じ、7月26日、「中国政府、文部省検定による中・髙社会科教科書の歴史的記述に抗議、修正申し入れ」を行った。8月26日「宮沢喜一官房長官、「歴史教科書についての政府見解」を発表(政府の責任で是正することなどを表明)した(以上、吉川弘文館「日本史総合年表」(2001年))。
 岡田英弘により明らかにされたが、当時、鄧小平は、党中央の軍事委員会を廃止し、国家軍事委員会に移管し、軍の力を弱めようとしていた。揚尚昆総参謀長をはじめとする人民解放軍の長老達は、この改革に反対、歯止めをかけたい、鄧小平を攻撃したいと思っていた。
 その時、教科書問題が起こり、人民解放軍は、これを鄧小平攻撃の材料にした。鄧小平としては、日本から援助も受けたく、そのため、日本攻撃は避けたい。しかし、「日本は、軍国主義の国で、日本の教科書は再侵略を狙っている」との日本の弁護をすれば、自分自身が没落する。結局、人民解放軍に中国政府が屈服した。その後開かれた中央委員会第7回総会で「党中央軍事委員会を廃止しない」と決定したのである。
 岡田英弘「この厄介な国、中国」(ワック・2001年)20頁、同「厄介な隣人、中国人」(ワック・2008年)71頁は、中国人は、「指桑罵槐」(しそうばかい、桑を指して槐を罵る)(本当の怒りの対象とは、まったく別のものを攻撃する)という行動原理をもつこと、中国人が批判してきたり、罵ってきた場合、真に攻撃したい対象は別のところにある、書かない、語らないことに本質があると見るべきだ、と述べている。
 青木直人「田中角栄と毛沢東」(講談社・2002年)179頁も教科書問題の背後に鄧小平の改革・開放政策に反対する保守派(陳雲)や人民解放軍の存在があったこと、鄧小平の軍の300万人人員削減計画に反発していたことを述べている。
中国人民解放軍は、政治家のコントロールを受けない、ひとつの勢力であることをときどき、見せつけたいのである。
9月 第12回党大会、党の主席制度を廃止し、胡耀邦は、党総書記に就任した。
党総書記 胡耀邦。
党中央軍事委主席、鄧小平。
総理。趙紫陽。
政治局常務委員(1中全会)。
 胡耀邦(67)、葉剣英(84)、鄧小平(78)、趙紫陽(63)、李先念(73)、陳雲(77)。
                        (華国鋒が消えた。軟禁された)。

1983年(昭和58年)

 1月、江青、張春橋らを無期懲役に減刑した。6月、国家主席に李先念就任。
11月 胡耀邦総書記、日本訪問。中曽根康弘との首脳会談で、「平和友好・平等互恵・長期安定・相互信頼」という日中関係四原則について合意した。
  中曽根首相は、自分の家族とともに胡耀邦と首相公邸で食事をした。
    胡耀邦は、日本の国会で講演し、NHKホールの「青年の集い」で、3000人の日本青年を中国に招待すると発表した。

1984年(昭和59年)

 3月 中曽根首相は、北京に胡耀邦総書記を公式訪問した。胡耀邦は、中南海の自宅での食事に中曽根首相を招待した。
 鄧小平は、建国35年、軍事パレードを実施した。オープンカーに乗り手を振った。
のち、2015年、習近平もオープンカーに乗り手を振った。
12月19日、サッチャー・趙紫陽両首相、北京で1997年7月1日香港返還に関する中英共同宣言及び3付属文書に正式調印。

1985年(昭和60年)

8月15日、中曽根康弘首相は、「戦後40周年」であるとして、靖国神社へ公式参拝を断行した。戦後、日本国首相として初めてであった。9月18日、「9・18事変(満州事変)」にあわせて、北京大学を中心に大学生のデモがおこる。
9月、党代表会議が行われた。 総書記 胡耀邦。 国家主席 李先念。党中央軍事委主席、鄧小平。総理、趙紫陽。
 政治局常務委員。胡耀邦(70)、鄧小平(81)、趙紫陽(66)、李先念(76)、陳雲(80)。

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9月22日、米、日本、英、西独、仏の5か国の蔵相、中央銀行総裁が集まり、為替市場で協調介入、ドルを日欧通貨に対し、短期間切り下げるという「プラザ合意」が行われた。合意時の1ドル240円から、1988年初めには121円になった。円高で、日本の工場の海外移転が始まった。

1986年(昭和61年)

8月15日、中曽根首相が靖国参拝を見送った。「天地有情」(文藝春秋・1996年)で、胡耀邦の国内での立場を考慮、靖国参拝を取りやめたと告白している。
 日本は、1913年(大正2年)から、神道は、非宗教であるとして、内務省が、仏教、キリスト教などの宗教は、文部省が所管していた。1945年、日本が敗戦すると、アメリカは、同年11月15日、神道指令を発し、神社への国家の支援の禁止、大東亜戦争、八紘一宇の用語の使用禁止を命じた。1945年から1946年にかけて、日本政府と折衝した占領軍は、神社、神道を「宗教」とするならば、その存続を許すと認めた。多くの宗教は、それを信仰する者、信者の心、行動を束縛するが、中曽根康弘首相、のちの小泉純一郎首相にとって、8月15日でなければならない、という束縛は弱く、たやすく変更できる程度の神道信者であるともいえる。憲法20条で政教分離が定められているが、首相の公式参拝は、いまだに公定解釈がなく、紛争がたえない。

1987年(昭和62年)

1月1日。北京の天安門広場で、学生の民主化要求デモがあり、警官隊がこれを規制した。「人民日報」は、民主化運動は、「ブルジョワ自由化」であるとし批判した。
同年1月16日。非公式の会議で、胡耀邦が独断で3000人の日本青年を中国に招いたこと、中曽根首相を招いたこと、経済政策の誤り等を鄧小平、趙紫陽に非難された。彭真、薄一波、胡喬木ら保守派長老も勿論非難した。鄧小平は、部下達に日本に接近するな、日本の政治家に対し、私の部下に手を出すな、仲良くしようとしたりするなと警告した。(注41
胡耀邦総書記は、学生デモの混乱の責任をとり辞任した。胡耀邦は軟禁された。その後、日本に対して好意的な態度を明らかにする政治局常務委員は全く出現していない。

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日本では、1987年2月26日、大阪高裁が京都にある中国人留学生寮「光華寮」を台湾政府が所有すると判決した。劉述卿外交部副部長は、中江要介中国駐在大使を呼び、政治的に誤ったものであるとし、遺憾であるとの覚書を交付した。のち、中江は中国側は、(大阪高裁判決の判決理由の文言が不満で、日本では行政府が司法権に介入できないことを知らず、裁判所判決を総理大臣が書き換えることを要求した)と述べている。(注42)。
 6月、日本外務省の柳谷謙介事務次官が、「鄧小平は、『雲の上の人』になったようで、下からの意見が届かないようだ」と内々の発言をした。「雲の上の人」は、(恍惚の人)の意味であるととられ、マスコミによって、中国側に伝えられ、6月6日、中国外交部アジア局責任者が、緊急に、駐中国の日本臨時代理大使呼び、厳重抗議の申し入れをした。
6月15日、柳谷次官は、日本記者団に釈明の会見をした。
この時、第3次中曽根内閣であるが、中曽根首相、倉成正外相は、柳谷次官の辞任を認めた。柳谷は、1974年駐中国公使として、中国交通部国際海運担当局長董華民と日中海運協定の交渉をし、仮調印をしているなど、中国通でもあった。非公式の席での記者への発言が原因で、事務次官が辞任せざるを得なかったことは、悪しき先例を作った。日本のマスコミ、政治家は、反省すべきである。それにしても中国は、中国の「皇帝」というべき、鄧小平への尊敬、平伏を日本人にまで要求した。おかしいと思う。江沢民の時代になっても、江沢民の意向をおもんばかって、日本に対し、強い態度に出ている(2007年、最高裁が光華寮訴訟の上告を受理したことについて、清水美和「『中国問題』の内幕」(ちくま新書・2008年2月10日)39頁)。

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10月 第13回党大会 1中全会
総書記代行 趙紫陽。
国家主席  李先念。
党中央軍事委主席、鄧小平。
総理 趙紫陽
政治局常務委員。趙紫陽(68)、李鵬(59)、喬石(63)、胡啓立(58)、姚依林(70)
(胡耀邦はヒラ委員に格下げになった)(鄧小平は、万里、田紀雲の抜擢を試みたが、保守派の反対で、断念した(注43
同年11月16日
総書記代行 趙紫陽。
国家主席  李先念。
党中央軍事委主席、鄧小平。
総理代行   李鵬。
政治局常務委員。趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林。

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同年10月25日 中国共産党第13回全国代表大会。趙紫陽は総書記代行から、総書記。
同年11月2日、中国共産党中央委員会、趙紫陽首相を総書記に選出する。
同年11月6日、竹下登内閣が発足した。副総理、蔵相宮沢喜一、奥野誠亮国土庁長官。

1988年(昭和63年)

4月、国家主席に楊尚昆就任。
 1988年、憲法改正が行われた。「土地使用権」が認められた。国、自治体が所有権をもち、そこに建てる建物に「私有権」を認めた。個人の使用権は、「70年」とした。
 1988年5月9日、衆議院決算委員会において、奥野誠亮国土庁長官が「あの当時、日本に中国を侵略する意図はなかった」、5.11盧溝橋事件は、偶発事件であると発言した。野党が追及し、中国、韓国の新聞が批判した。
 5月13日、奥野誠亮長官が辞任した。大東亜戦争は、自存自衛、アジア解放のためという面があったことは確かである。西尾幹二は、「奥野氏は〈日本に侵略の意図まかったは〉と言うべきでなく、〈侵略という意図だけであの戦争のすべてを説明できない〉という風に言うべきであったろう。」「日本の国内の自己主張をただ 抑えればよいのではない。日本人の描く世界像を、国際的な討議の場に出し、抑えるべきところは抑え、認めさせるべきところは認めさせるという、言葉による努力を一段と傾注しなくてはならない」(「日本はナチスと同罪か」(ワック・2005年)159頁)と述べた。
 首相の竹下登(1924ー2000)に奥野を留任させる度胸がなかったことは残念であるが、竹下は、「中国向けのODAを仕切ってきた」人で、鄧小平、李鵬から感謝されていた(青木直人「日本の中国援助・ODA」(祥伝社・2001年)59頁)。竹下は、奥野大臣を辞職させない、と伝え、執拗な交渉をすべきであった。

1989年(昭和64年・平成元年)

 4月15日、胡耀邦前総書記が死去した。1915年(大正4年)生まれ、享年73歳。4月17日、 胡耀邦前総書記の追悼のため、北京の学生がデモ行進をする。
 5月13日。学生等が天安門広場で、ハンストに入る。
 5月16日、鄧小平が訪中のゴルバチョフと会見した。
 5月17日、趙紫陽とゴルバチョフが会見し、「重要な問題は鄧小平の指示を仰いでいる」と発言した。これがのち、公表された。このことは秘密で、趙紫陽に言論の自由はなく、鄧小平への反逆であった。
5月20日、北京に戒厳令がしかれた。
5月23日、北京で、李鵬首相退陣要求の100万人のデモ行進が行われる。
6月3日、中国政府は、民主化運動を「反革命動乱」とみなし、人民解放軍を出動させ、武力鎮圧を行う。3日深夜から4日未明にかけて、学生・市民に発砲し、死傷者が多数でた。「第二次天安門事件」である(第一次天安門事件は、1976年、周恩来の死亡追悼デモであった)。このとき殺された学生・市民は、1000人を越えるともいわれるが不明である。なお、チャルマーズ・ジョンソンは、韓国で1980年5月27日、光州市で反政府デモに対し韓国軍、全斗煥が韓国民間人を「数百人あるいは数千人」殺されているが、「1989年に中国共産党によって天安門広場で殺された人数よりもはるかに多いと思われる」という(「アメリカ帝国への報復」(鈴木主税訳・集英社、2000年)46頁)。
6月23日、中国共産党第13回中央委員会第4回全体会議は、天安門事件の責任を追及し、趙紫陽を全ての職務から解任した。鄧小平の意向であった。趙紫陽は軟禁され、軟禁中の2005年、死亡した。
 鄧小平は、江沢民(上?党委員会書記)を中国共産党中央委員会総書記と中国共産党中央政治局常務委員に選出させた。前述のように陳雲の推薦により上?市長を1985年7月から1988年4月まで、約3年勤めている江沢民を昇格させたのであった。
ちなみに、上海市長は、朱鎔基(1928年生まれ湖南省長沙出身)が就任した。朱は、1979年、国家経済委委員会燃料動力局処長、1983年、国家経済委員会副主任兼国家経済党委、1984年党委副書記(次官級)に就いていた。朱は、上海市長を1991年4月まで3年勤める。
党総書記  江沢民。
国家主席  楊尚昆。
党中央軍事委主席、鄧小平。
総理   李鵬。
政治局常務委員。江沢民(63)、李鵬(61)、喬石(65)、姚依林(72)、宋平(72)、李瑞環(55)。
ゴルバチョフの訪中で、中国とソ連の関係は正常化し、和解した。米国、欧州諸国は、人権問題で中国を批判、対中経済制裁、高官交流の停止を決める。日本は、「中国を孤立させるべきでない」と欧米と異なる姿勢を示し、海部俊樹首相は先進国首脳のうちで一番早く、中国を訪問、対中制裁を全面的に解除した。この頃、鄧小平は、「韜光養晦」(才能を隠して、外に出さない、弱い時は陰で力を蓄える)という方針に徹していた。
 1989年11月、党中央軍事委主席に江沢民が就任することに決まった。

1990年(平成2年)3月20日。

 第7期全国人民代表大会第3回会議、国家中央軍事委員会主席に江沢民を選出した。

1992年(平成4年)

10月 第14回党大会、1中全会
党総書記  江沢民。
国家主席  楊尚昆。
党中央軍事委主席、江沢民。
総理   李鵬。
政治局常務委員。江沢民(66)、李鵬(64)、喬石(68)、李瑞環(58)、朱鎔基(64)、劉華清(76)、胡錦濤(50)。
胡錦濤が、鄧小平の存命中であるこの時期に政治局常務委員に選出された。鄧小平は、1989年、江沢民を決めると共にその次の後継者と決めていた。
1992年10月23日から29日まで、天皇・皇后両陛下が北京、西安、上?を訪問した。宮沢喜一首相が実現させた。楊尚昆国家主席主催の公式晩餐会、江沢民と天皇との会見での天皇の「おことば」が注目された。
第14回党大会は、「社会主義市場経済論」を打ち出し、市場経済への移行を認めた。

注41
鳥居民「『反日』で生きのびる中国」(草思社・2004年)207頁、210頁。

注42
3年間中国大使だった中江要介が中村治の苦労された点は、との設問に答えたも の。中村治編著「日本と中国、ここが違う」(徳間書店・1994年)147頁。清水美和「中国はなぜ『反日』になったか」(文春新書・2003年)131頁によれば、柳谷は「発言者名を明記しないという条件付の記者懇談で」あったこと。柳谷発言に日本政府・自民党内から批判する声が出、柳谷は公式に遺憾の意を表明し、「定年」を理由に辞任した。

注43
唐亮「現代中国の政治」(岩波新書・2012年)29頁。