第4章 毛沢東の時代ー中華人民共和国の成立 – 後編 - ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月20日

1971年(昭和46年)9月8日(吉川弘文館・日本史総合年表)、共産党副主席林彪は、毛沢東と対立し、毛沢東の暗殺を謀り、失敗。妻、葉群、息子の林立果空軍作戦部副部長、部下とともにソ連に亡命の途中、モンゴルで墜落死したとされる。林彪について陳破空は、林彪が毛沢東より15歳若いが軍事の天才であったこと、部下には仁愛を以て接し、慕われたという。林彪は、毛沢東に忠誠心をもっていたが、その外交政策には反対だった。マルクス、レーニンよりも孔子孟子を好んだ。(注24
 なお、中嶋嶺雄は石平との対談で、行政官僚周恩来が黒幕である政府と林彪の軍との戦いが行われ、林彪は、北京で粛清されたと推理している(注25)。
産経新聞1971年11月2日付けは「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」と報じた。
鬼塚英昭(1938-2016)は、「佐藤愼一郎の文書」からとして、林彪は、ニクソン招請に反対したこと、「果たしてそれから50日後、ニクソン招請に反対したと見られる林彪の叛乱事件が勃発している。林彪がソ連修正主義に投降して、『門戸を閉ざして自らを守る』ことを主張した売国的路線を選んだとして、現在、攻撃を受けているのがそれである。」
という(「田中角栄こそが対中売国者である」(成甲書房・2016年)73頁)。 林彪は、ニクソン訪中の受け入れに反対し、むしろ、ソ連との国交回復を主張し、このことをソ連に通報したのであろうか。
 ニクソン訪中が、当時の中国でも大きな政策変更であり、大きな混乱があったと思われる。林彪事件は、1972年7月28日まで、約10カ月間伏せられた。共産党中央の秘匿能力に感嘆する。同時に日本の朝日新聞秋岡家栄記者が中国当局の1972年の発表まで、報道しなかった従順さにも感嘆する。
周恩来は、アメリカとの国交をはじめる準備と林彪問題の後始末に忙殺されていた。
江西にいた鄧小平は、王東興に「林彪事件はショックでした」とし、いつでもお役に立ちたい、といった手紙を出しているとエズラ・ヴォーゲル前掲書は述べている(144頁)。
林彪の残された親族、部下達はどのように処遇されたであろうか。太子党とされて、優遇されているという情報はない。

1972年2月21日から28日まで、キッシンジャーとともに、ニクソン大統領が中国を訪問し、アメリカと中国は、1,台湾問題、2,ベトナム問題、3,米中正常化問題、4,ソ連の評価、ソ連関係、5,日本および日米同盟、6,朝鮮半島、7,バングラディシュ独立をめぐるインド、パキスタン紛争など多岐に亘って、話し合った。
ニクソンは、「日本人は、あの巨大な生産的な経済、大きな自然の衝動、敗北した戦争の記憶などから、アメリカの保障がはずれたなら、自分自身の防衛体制を築く方向に向かうことが大いにありえます。(原文、以下、5行抹消)」「アメリカは、日本」その他「安全保障をしている国に対して、中国にとって有害な政策を行わないようその影響力を行使します。」と述べた(注26)。瓶のふた論である。
 アメリカのアジアにおける存在が、アメリカだけでなく中国の利益にもかなっている、とニクソンは強調した。毛里和子の次の叙述を記憶しておきたい。
 「米中の日本イメージは奇妙なほど一致している。キッシンジャーが、中国人は伝統に由来する普遍的視点を持っているが、日本の視点は偏狭だといえば、周恩来が日本は『島国の集団』だと応ずる。とくにキッシンジャーは『日本の社会はとても特異』で、その文化的求心性ゆえに『ほかの人々に対して感受性が鋭敏ではない』と辛辣だ」(10月22日)」
注27)このあと、毛里和子は、周恩来のこの意見と日中国交正常化との決断がどう整合するのかと指摘する。有本香は、キッシンジャーが親中派で、親日派でないこと、周恩来が冷酷、冷徹な人であることを石平との対談で語っている(「リベラルの中国認識が日本を滅ぼす」(産経新聞出版・2015年)175頁)。有本は、周恩来の本性をチベットのダライ・ラマ14世法王が鋭く見抜いている、と指摘している。キッシンジャーについては、日高義樹が毎年のように彼と会見し、彼は今こう考えている、と報じている。青木直人が、キッシンジャーが、1977年、国際コンサルテイング会社「キッシンジャー・アソシェイツ」を立ち上げ、会長についており中国と関わっていると報じている(注28)。

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 これよりさき、1971年10月25日、国連総会で、中華人民共和国を国連加盟国と し、台湾の中華民国を国連から追放するというアルバニアなど23国提出のアルバニア決議案が採択された。正式には、「国連における中華人民共和国の合法的権利の回復」という決議案で、賛成76,反対35、棄権17,欠席3であった。
ソ連、カナダ、メキシコ、インドなど76か国が賛成した。
アメリカ、日本、オーストラリアなど35か国が反対した。
アルゼンチン、インドネシア、マレーシアなど17か国が棄権した。
中国国民党の中華民国は、国連会場から、退場した。こうして、中華人民共和国が国連に入ることになった。アルバニア決議案が採択された時、佐藤栄作総理は、日本が信義を守ったことを誇りに思うという趣旨の国会答弁をした。しかし、佐藤は、昭和47年5月24日、衆議院外務委員会で、「中国の唯一の正統政府は中華人民共和国政府」と発言した。
 昭和39年11月から昭和47年7月まで約7年8月続いた佐藤栄作内閣は、退陣した。
1972年(昭和47年)7月7日、田中角栄が内閣総理大臣に就任した。
 田中は、大平正芳外相と、日中国交を急いだ。
 8月30日、ハワイにおいて、田中首相、大平外相とニクソン大統領、キッシンジャー大統領補佐官、ロジャーズ国務長官、ジョンソン国務次官、牛場信彦駐米大使が顔を合わせた。田中訪中を認めて貰うためである。
「なにしろアメリカは、1年前のニクソン訪中宣言で日本の頭越しに中国と接近していた。アメリカとすれば、日米安保体制を堅持しながら日中国交正常化に向かうという田中や大平に異議は唱えられない。焦点は台湾をどう扱うかである。」(注29

 8月22日、田中角栄首相は、椎名悦三郎元外相を副総裁にし、23日、台湾特使を命じた。9月17日、椎名特使の台湾訪問が決まった。
 9月初旬、台湾の外交部柯振華は、旧知の椎名派の水野清衆議院議員に声をかけ、椎名訪台を認める前に、前触れが要るとして、張群との会談を要請した。張群は、日本陸軍士官学校を卒業、蒋介石と親しく、外交部長、総統府秘書長の後、総統府最高顧問になっていた。
 9月12日、水野清議員は、張群へ、「田中、大平は北京に行くのです」と述べると、張群は「中国共産党に結局、騙されるよ。いまは中国共産党もソ連と仲悪くて、追いつめられて困っているけれども、調子ががよくなったら、あなたたちを裏切るよ」と述べた。
そういって、張群は、水野の目前で、電話器をとり、沈昌煥外交部長へ、椎名訪台の受け容れを指示した。(注30

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1972年(昭和47年)9月25日、田中角栄が訪中した。同月29日、田中角栄首相と周恩来は、日中共同声明を調印、国交正常化した。
田中角栄は、毛沢東と会見した。(田中角栄が)「日本の中国侵略を謝罪すると、毛沢東は頭を横に振り、『謝らまらないでください。日本は大いに貢献してくれた。もし日本が中国侵略戦争をしなかったら、我々共産党は強大にはなれず、蒋介石を倒して政権を奪取することはかなわなかったでしょう。』と即座に答えた。さらに、『日本の皇軍が中国を侵略してくれたことにむしろ感謝したい』と述べ、『我々はどのようにして日本に感謝すればよいか。日本からの戦争賠償はいりません』と言ったのである。」(注31
台湾は対日断交の声明を出した。のち、2012年、中嶋嶺雄は「『日中国交正常化』は誤りだった」との論文を発表した。(注32
キッシンジャーは、先に訪中したアメリカより早く、日本が日中国交回復を実現したのを見て、「ジャップめが」と激怒したと伝えられている。のち、キッシンジャーは、金融保険会社AIGやコカコーラなどの世界的企業の顧問としてその中国進出を助ける(青木直人「敵国になり得る米国」(PHP・2008年)110頁)。
 石平は、「同盟国のアメリカが日本の頭越しに中国と接近したのだから、さすがの日本も慌てたのであろう。しかしそれにしても首相による一度の訪問だけで、いままで数十年間も交渉を断絶していた国、しかも日本とは価値観も政治制度もまったく異なる中国との『国交正常化』を完遂してしまうとは、やはり性急にして軽率な外交行動であったといえまいか。」と批評している(「なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか」(PHP新書・2013年)115頁)。
 当時、日本で、ゆっくり交渉しようといった人はいたであろうが、田中角栄首相の行動力の前に、そういう声はかき消された。
 石平氏は、「日中間の摩擦と紛争と不幸の歴史は、この軽率な対中接近から始まったのでないかと思うのだ。」(前掲書)でいわれるが、そうかも知れない。
今から思うと、アメリカが日本に対して、中国との交流を禁止させている、という不満が国民、国会議員、政府の人々に潜在していた。
 昭和34年3月9日、浅沼稲次郎が北京で「米帝国主義は日中共同の敵」と演説し、一部の人々の喝采を浴びた。昭和37年11月9日、高崎達之助・廖承志のL・T貿易が調印され、これは、明るいニュースとして報じられた。
 一方で、昭和35年、岸内閣は、デモ隊に包囲される中、新安保条約の強行採決をした。アイゼンハウアー大統領訪日のため来日した大統領新聞関係秘書ハガチーをデモ隊が包囲し、アイク訪日を中止させた。10月、社会党委員長になっていた浅沼稲次郎は、右翼少年に暗殺された。
 国民にやり場のない鬱積した感情があり、日本人は、中国と人と物の交流が行われれば、何とかなるのでないか、という思いがあった。岸内閣の後を継いだ池田勇人は、「所得倍増」を掲げ、経済重視を謳った。米国の監視の中で、高崎達之助、古井喜実をひそかに応援していたと思われる。

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 1973年2月、鄧小平は、北京に呼び戻され、実務の党内会議に参加する。まもなく、国務院副総理に就任する。同年8月、中央委員会委員。12月、政治局員、中央軍事委員会委員。
 1974年4月。国連総会で、鄧小平は演説を行った。
1974年10月、毛沢東は、鄧小平を第一副総理に任命した。正式就任は1975年10月である。江青らは反発した。毛沢東は、王洪文を後継者にしようかとも考えていた。一方、鄧小平は、毛沢東の支持を得て、修正主義反対、安定と団結、国民生活向上の「3つの指示」を提起した。
 また、古参幹部を復帰させ、人民解放軍の人員を3年間で、160万人削減するとした。
 鄧小平は、また、胡喬木らに経済発展の長期計画を作らせた。

1975年(昭和50年)

 4月30日、南ベトナムで、北ベトナム軍・解放民族戦線軍、サイゴンへ無血入城した。
 ミン政権、無条件降伏した。
 日本では三木武夫内閣(1974。12。9~1976。12。24)は、5月7日、閣議で、南ベト ナム臨時革命政府の承認を決定した。
 大平正芳蔵相(のち1978年12月7日から1980年7月17日まで首相)は、500億円 を中国へ資金を貸与(借款)した(岡田英弘「厄介な隣人」(ワック・2008年)229頁)。
 1975年秋、毛沢東は、鄧小平の台頭を警戒しはじめた。

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1976年(昭和51年)

 毛沢東は、1893年(明治26年)12月26日生まれで、周恩来は、1898年(明治31年)3月5日生まれであった。毛沢東が5歳年長であるが、先に周恩来が死んだ。 1976年(昭和51年)1月8日、周恩来は79歳で死去し、8月後の1976年9月9日、毛沢東が84歳で死去した。
 鄧小平は、1904年(明治37年)生まれで73歳、1997年(平成9年)、93歳で死去するまで、これから20年生きる。
 毛沢東は、民衆から恐れられていた。周恩来は、民衆から愛されていた。日本と国交を回復したとき、決定権は毛沢東が持っていたのであろうが、日本人は、周恩来が、日本に賠償を求めなかったことに恩義を感じ、温顔で、献身的に中央の日常業務をとりしきっていたらしこと、また日本人にも積極的に会見しており、人気があった。
 周恩来は、毛沢東に家臣のように50年以上仕えた。毛沢東は、周恩来を党副主席、国務院総理に就けてはいたが、周恩来、鄧小平を警戒、心ゆるさず、4人組の背後にいた。周恩来は、毛沢東に忠実で、しかし毛沢東が冷酷な男で、周恩来を単なる使用人の1人としか思っていないようだ、ということを日本人は誰も知らなかった。
1月12日から3日間、労働人民文化宮で、市民参加の周恩来追悼会が開かれた。1月15日、中国共産党による追悼集会が開かれ、国務院第1副総理鄧小平が追悼の辞を述べた。
1月、毛沢東、華国鋒の国務院総理代行と党中央の日常業務統括を決定した。
この頃、毛沢東の妻江青(党政治局員)、張春橋(党政治局常務委員・上?市党委第1書記)、姚文元(政治局員)、王洪文(中国共産党副主席)の4人組と周恩来、鄧小平とは、意見が衝突していた。周恩来、鄧小平を葉剣英(党副主席、中央軍事委員会副主席)、李先念(政治局員、国務院副総理兼財政部長)が支持し支えていた。葉剣英(1897ー1986)は、文革期に失脚、林彪事件後に復帰、1973年党副主席、1975年国防部長。
江青は、毛沢東に周恩来、鄧小平らを退け、謝静冝(女性)(党中央委員、北京市革命委員会副主任)、遅群(清華大学党委員会書記)、喬冠華(外交部副部長)の登用を申入れた。(注33
 毛沢東は、迷っていた。陳破空によれば、毛は江青、その次に毛遠新を後継者に考えていたという。(注34)。しかし華国鋒が後継者とされ、その意向を受けて党中央は、同年2月2日、華国鋒を国務院総理代行にした。毛沢東は周恩来の後継者を決めるに当たって、身辺につきそっていた甥の毛遠新へ、何人か人物評を聞いた。毛遠新は、華国鋒は、「忠厚老実」(忠実で、情に厚くたいへん実直)と伝えた。(注35)毛遠新は、毛沢東の弟、毛沢民(遼寧省党委書記、早世)の息子で、毛沢東、江青に育てられた。当時35歳。
毛遠新は、毛沢東の連絡員(毛沢東弁公室主任)として常駐、毛沢東に鄧小平批判を吹き込んだ。(注36)。
同年4月4日、天安門広場には、周恩来の追悼とその政敵「4人組」を糾弾する人々数万人が集まったが、1万人の民兵、3000人の公安警察、人民解放軍北京衞戍区部隊が鎮圧、388人が逮捕された。「第一次天安門事件」である。
 毛沢東は、これは反革命事件であるとし、党の副主席であり、副首相の鄧小平が反革命事件の首謀者であると認定した。同年4月4日、毛沢東は、華国鋒を第1副主席兼国務院総理に任命し、鄧小平の全ての職務を剥奪した。江青、王洪文、張春橋、姚文元の4人が党の中枢を把握し、党内の実権派、行政の幹部、経済幹部と対立した。
鄧小平は3回目の失脚である。江青は、鄧小平の党籍の剥奪を毛沢東に迫ったが、毛沢東は同意しなかった。毛沢東はいざとなれば鄧小平を起用しようと考え、2人の関係は微妙であった(エズラ・ヴォーゲル前掲書149頁)。
1976年7月2日、ベトナム社会主義共和国成立。南北ベトナム統一さる。
1976年7月、唐山大地震で24万人死亡した(注37
1976年9月9日、毛沢東が死去した。
同年10月、華国鋒は、党副主席兼国防相の葉剣英らと提携し、4人組を逮捕した。毛沢東のボデイガードであり、親衛隊指令の江東興も逮捕する側に廻った。
毛遠新は、華国鋒により逮捕され、世襲政治の芽を断ち切った(注38)(もっとも華国鋒は、「毛沢東の庶子といわれる」という説もある。(注39
毛遠新は、17年間の獄中生活を送り、1993年釈放された。その後、上?の自動車研究所で働いたが2001年60歳で定年退職した。(注40
1976年10月、華国鋒は、党主席、中央軍事委主席に就任した。華国鋒へ、葉剣英等は、鄧小平の復帰を迫るが、華国鋒は拒絶した。

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1977年(昭和52年)

2月 3紙共同社説、「二つのすべて」を掲載した。
華国鋒が、「毛主席が決定したことはすべて断固として守り、毛主席の指示はすべて変わることなく順守する」という「二つのすべて」を主張したからである。
同年4月、鄧小平は、「二つのすべて」を批判した。これは「原則として、毛沢東は、非常によかった、最後にちょとだけ間違った」ということで、エズラ・ヴォーゲルもいうように「毛沢東をすごく尊敬する人も、反対しにくい。」ものであった(前掲書129頁)。
同年7月、第10期三中総会、鄧小平の全職務復帰を決めた。4人組の党籍を剥奪した。
同年8月、第11期一中総会、党主席に華国鋒、副主席に鄧小平、李先念らを選出した。
毛沢東死後、華国鋒が党総書記になるが、短期であり、「毛沢東の時代から、鄧小平の時代」に移行したと解したい。

注24
陳破空「赤い中国の黒い権力者たち」(幻冬舎・2014年)78頁が詳しいが、真相  は謎のままという。

注25
中嶋嶺雄・石平「『日中対決』がなぜ必要か」(PHP・2009年)79頁から84頁。

注26
前掲、毛里和子・毛里興三郎「ニクソン訪中機密会談録」(名古屋大学出版会・2001年)48頁。

注27
毛里和子「日中関係ー戦後から新時代へ」(岩波新書・2006年)64頁。

注28
日高義樹「アメリカが日本に『昭和憲法』を与えた真相」(PHP研究所・2013年)によると、日高はキッシンジャーと2013年までに20回以上会見していて、殆ど毎年刊行している著書に、キッシンジャーとの会見記がある。この著書でも、日本の憲法改正、核保有国になることについて意見を述べさせている。
青木直人「人脈で読む中国の真実」(実業の日本社・2002年)14頁以下は、キッシンジャーが中国の政府系大企業のアドバイザーであることを述べている。

注29
服部龍二「日朝国交正常化」(中公新書・2011年)84頁。

注30
服部龍二「日中国交正常化」99頁。

注31
陳破空著、山田智美訳「赤い中国の黒い権力者たち」(幻冬舎・2014年)53頁)

注32
中嶋嶺雄「『日中国交正常化』は誤りだった」WiLL2012年10月号76頁。

注33
産経新聞「毛沢東秘録・下」(扶桑社・1999年)261頁。

注34
陳破空「赤い中国の黒い権力者たち」(幻冬舎・2014年)48頁。

注35
産経新聞「毛沢東秘録・下」286頁。

注36
産経新聞「毛沢東秘録 下」287頁。

注37
富坂総編「中国官僚覆面座談会」123頁。

注38
陳破空前掲書50頁。

注39
宮崎正弘「中国権力闘争」(文芸社・2012年)55頁。石平は、(華国鋒が生まれ たのは、山西省で、その頃、毛沢東は江西省で革命運動をしており、地理的にだいぶ離れていて、華国鋒が毛沢東の子どもである確率は低い)という(黄文雄・石平「『中国 の終わり』のはじまり」(徳間書店・2012年)78頁)。

注40
江青の秘書閻長貴「中南海文革内幕」による。産経ニュース2015年4月21日。これによると、毛沢東は、後継者に張春橋を選ぼうとし、毛遠新に問うたが、彼は張は陰険であるとして賛成しなかった、という。