第4章 毛沢東の時代ー中華人民共和国の成立 – 前編 - ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月17日

 日本の広島に原爆を投下したのは8月6日、3日後の8月9日、ソ連軍が満州に侵攻、大略奪をし、日本人をシベリアへ連行し、強制労働に従事させた。
 あと、満州で、中国国民党と中国共産党の争闘が続く。
アメリカは、蒋介石の国民党を応援したが、毛沢東の共産党に敗北した。
1949年10月1日、中華人民共和国成立を正式宣言した。
1949年12月、国民党は、日本国の領土であった台湾へ逃げこみ、台湾で政権を打ち立てた。蒋介石は、1945年頃、アメリカから見限られ、日本軍旧軍人たちによる「軍事顧問団白団(ばいだん)」を台湾に随行させ、台湾の軍編成に寄与させた(渡辺望前掲書102頁)。
 毛沢東が中国大陸を征服した。遠藤誉「毛沢東ー日本軍と共謀した男」(新潮新書・2015年)は、中華人民共和国の成立まで、毛沢東がいかなる行動をとったか、を新たに発見された資料、ご自身の体験と共に述べている。
1950年6月、ソ連のスターリンは、金日成の南進計画を了承、「スターリンのお墨付きを貰った金日成は、ただちに毛沢東の中国共産党との話し合いをすすめ、兵員3万人をもらいうける交渉にはいる」(注14
 北朝鮮は、南朝鮮へ侵攻し、朝鮮戦争が始まった。中国も参戦し、引き分けの格好で、37度線がひかれた。デイヴィッド・ハルバースタム?山田耕介・山田侑平訳「ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争 上・下」(文藝春秋・2009年)は、米国の内情を主として描くが、朝鮮戦争の指揮をした彭徳懐は、リッジウエイと同じく「戦士の中の戦士」と称賛する(下巻244頁以下)。彭徳懐は、朝鮮戦争休戦から6年後の1959年夏の廬山会議で、失脚し、文化大革命で、紅衛兵で殴打され、1974年死亡した。
 朝鮮戦争が起きたことは、日本にとって幸いであった。日本は、兵站基地になり、特需といわれた物資の供給は、急激な経済発展の契機となった。
 アメリカは、大戦終結直後からの日本弱体化政策を変更し、アメリカの陣営に組み入れる政策に転換した。1949年11月、アメリカ国務省は、対日講和条約案起草準備中と発表し、1951年9月8日、対日平和条約、日米安全保障条約が調印された。
1952年4月28日、対日平和・安保両条約が発効、台湾の国民党政府と平和条約を調印した。
 日高義樹はこう書いている。「1949年、共産国家として成立した中国は、基本的にはアメリカを敵としていなかった。両国の関係ははっきりしないものの、むしろ味方どうしと言っていいほどであった。1952年に日本が独立するにあたって、日本の外交および軍事をアメリカが手放さなかったのは、新しく成立したひ弱い中国を日本が軍事力や政治力で再び制圧することを恐れたからであった。アメリカ政府の外交記録第6巻「極東と太平洋1950年」の1140頁にはこのことが詳しく述べられている」(注15
 アメリカは、日本が独立しても、アメリカが断交している中国と交際し、通商することを許さず、代わりに、アメリカの市場を日本に提供した。朝鮮戦争の特需を契機に、軽武装の日本は、経済発展に集中した。アメリカは、日本の自衛隊を国連軍の一員として組み込み、日本の軍事力を使いたいと思ったであろうが、吉田茂は軍備強化に反対し、日本国民もこれを支持した。
 朝鮮戦争が起こらなかったら、日本は、アメリカによって4つの島に閉じ込められ、窮乏生活を強いられ、あるいは、革命が起こったかも知れない。
 朝鮮戦争が起こった時、首相が吉田茂でなく、他の者で、まだ相当数健在の旧軍人達を使い再軍備を行い、朝鮮戦争に参加していれば、約70年にわたるアメリカ軍の沖縄駐留はなかったかもしれない。

1955年、保守党である自由党と民主党が合併し、自由民主党が結成された。
1956年12月23日、日本では、戦前、「小日本主義」を主張した石橋湛山(1884ー1973)を首班とする内閣が成立した。石橋は、戦前から自由主義者として、一貫し、気概のある人であった。中国との国交回復については、国連および自由主義国家との調整をつけたのち行う。中国との貿易は、従来より積極的に拡大していく。との方針を示した。しかし、石橋は病気に倒れ、わずか2か月で、首相を辞任した。石橋は、松村謙三、高崎達之助と相談し、中国へ接近しようとしていた。
 松村謙三は、富山県出身の旧民政党系の党人で、戦前、衆議院議員に当選し、戦後文相、農相を務めている。古井喜実(1903-1995)は、鳥取県出身の内務官僚である。敗戦直後の東久邇宮内閣で、内務次官であった。大正14年内務省入省である(注16)。
松村と古井は、いずれも昭和26年、追放が解除されると昭和27年2月結成された改進党から出て、昭和27年10月から代議士となった。2人は、昭和29年11月、日本民主党と反・吉田茂の自由党新党準備会会派は、鳩山一郎総裁の日本民主党に入る。昭和29年12月10日、第一次鳩山内閣で、石橋湛山通産相、経済審議庁長官に高崎達之助、1955年3月19日の第二次鳩山内閣で、石橋湛山通産相、松村謙三文相、経済企画庁長官(経済審議庁から名称変更)に高崎達之助が就いている。1955年11月22日から1956年12月23日までの第3次鳩山内閣でも、石橋湛山通産相、高崎達之助経済企画庁長官である。
1955年11月15日、自由民主党、民主・自由両党の合同により、自由民主党が結成され、保守合同が実現した。
1956年12月14日、自由民主党大会で石橋湛山が岸信介を破り、自由民主党総裁に当選した。石橋は、親米一辺倒の否定、1000億円減税、日中貿易促進などの新政策を掲げたが、病気で倒れ、2か月の内閣であった。
1956年12月23日から翌57年2月25日までの石橋内閣のあとは、岸信介内閣である。第一次岸内閣時代の1958年2月26日、日中鉄鋼協定が調印された。周恩来と稲山嘉寛八幡製鉄常務が、国際貿易促進協議会(国貿促)の鈴木一雄(元・三菱)、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄の重役9人が会い、協定調印になった。1958年から1962年までの5カ年にわたって、日本が、中国から石炭、鉄鉱石を購入、見返りに鋼材を輸出する、という長期バーター貿易(合計片道1億ポンド)であった。
だが、同年、後述する長崎での中国国旗事件が起こり、幻の協定になる。
第2次岸内閣(1958年6月12日から1960年7月19日まで)の通産大臣に高碕達之助が就任している。
岸信介は、政経分離で、経済交流を目指したが、台湾支持で、反中国であった。
東京の中国通商代表部に中国国旗の掲揚を認めず、第4次日中民間貿易協定は成立しなかった。
1958年5月2日、長崎市浜屋デパートの中国切手展覧会場で、日本人反共青年が中国国旗を引きずり降ろすという、長崎国旗事件が起こった。
中国陳毅外相は日中交流の全面断絶を通告した。

 1958年5月、毛沢東は、大躍進政策を開始した。農村の実情を無視して、村ごとに土法炉という溶鉱炉をもたせ製鉄させた。民兵を組織化し、人民公社を建設させたという。
農業、工業の生産は低下し、国民生活は悪化した。
 このとき、劉少奇、周恩来、陳雲らは、毛沢東の大躍進政策は、非現実的であると内心思っていた。1958年11月、第8期6中全会(党中央委員会全体会議)で、大躍進政策が批判された。1958年12月、毛沢東が国家主席を辞任した。大躍進政策の失敗の責任を取った。農村で大飢饉が発生し、1959年から1961年にかけて、2000万人から3000万人の農民が死亡した。
1959年夏、廬山会議(共産党中央の政治局拡大会議と中央委員会総会)が江西省廬山で開かれた。人民解放軍の彭徳懐(1898-1974)が、大躍進運動の問題点を指摘した手紙を毛沢東に出した。毛沢東は、コピーを作り会議の出席者全員に配布し、彭徳懐を「政府の敵」に仕立て上げた。毛沢東に内密に直言したのであるが、毛沢東の不興を買い、会議出席者は、彭徳懐のいうことは真実と思いながら、公然と支持する者はなく、彭徳懐は失脚させられた。毛沢東はまた完全に権力を握った(エズラ・F・ヴォーゲル「鄧小平」(講談社現代新書・2015年)102頁)。
 彭徳懐は見せしめになり誰も毛沢東を批判しなかった。鄧小平は「転んで足を怪我したからといって、彭徳懐を批判する会議に、参加しなかった」(エズラ・F・ヴォーゲル前掲107頁)。
(ちなみに彭徳懐は、盧溝橋事件直後の通州事件で無抵抗の日本人市民を虐殺した。「自述(自伝)」がある。筆者は未見。)
1959年4月、劉少奇が国家主席に就任した。しかし、毛沢東が、依然として共産党主 席であり、軍事委員会主席であった。
1960年、この頃、社会主義建設の路線をめぐり、フルシチョフのソ連との中ソ対立が顕在化した。
 1960年7月19日、第一次池田勇人内閣が成立した。同年12月8日から1963年12月9日までの第2次池田内閣の厚生大臣に古井喜実が就いた。
1960年10月、高崎達之助は、訪中し、周恩来、陳毅、廖承志と会談した。
1962年10月、大企業22社のトップを含む高碕達之助一行42名は、北京にいき、会議を重ねる。1962年11月9日、高崎達之助・廖承志は日中総合貿易覚書(LT貿易覚書)に調印した。池田内閣は、経済を重視し、外国との摩擦を避ける政策を採用し、池田勇人の黙認の下で、団長高崎達之助(1885-1964)衆議院議員、副団長岡崎嘉平太(1897-1989)全日空社長が動いた。
 中国側は、廖承志事務所を東京に、日本側は、高碕達之助事務所を北京に置いた。
 ここで、先走って述べると、のち、田中角栄によって、国交が回復し、岡崎は「井戸を掘った人」として当時の中国首脳部から称えられ、全日空は「北京新世紀飯店」という712室のホテルを伊藤忠の仲介で建設し、陳希同北京市長の次男陳小同を社長に据えるが、江沢民が1990年、トップになると、陳希同、陳小同は拘束され、粛清され、結局、全日空は、航空便の運航のみで、ホテル事業から撤退した(青木直人「誰も書かない中国進出企業の非情なる現実」(祥伝新書・2013年)36頁以下)。
 その前日、趙安博中国共産党中央外事工作部秘書長は、孫平化、肖向前、王曉雲という、知日の実務家が同席している席で、高崎らに賠償請求について、次のように述べた(注17
「中国はたしかに請求権はありますが、中国としてはたとえ、日本と国交を回復する時になったも、そのような請求権の問題を強く表面に出す考えはもっておりません。何故かと言えば、それは第一次大戦後のドイツの例によっても明らかなごとく、もしそのような請求権問題を強く表面に出せばそれは日本国内にファシストを誘起さすことになります。」
 松村、高崎、古井という政治家は、中国との貿易拡大、日中友好を進めたいと願っており、昭和30年代、日本の政界で、暗黙の支持がった。
 1962年11月、ヨーロッパを旅行した池田勇人総理大臣は、アデナウアーに対し、「日本は、中共から買いたいものは少ないけれども、中共は日本から多くのものを買いたい。だから延べ払いになってしまう。これが制約となるから、対中共貿易はあまり伸びないだろう」と答えている(伊藤昌哉「池田勇人その生と死」(至誠堂・1966年)153頁)。

 1961年1月24日、日本社会党の黒田寿男衆議院議員らが、毛沢東に会っている。毛沢東が、国内行政はうまくいかず、劉少奇に実権を奪われ、ソ連では、フルシチョフがスターリン批判をし、面白くない日々を送っていた頃である。
毛沢東は、こう言った。(注18
「日本の軍閥はかって、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山のなかにいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地をつくって、その後の解放戦争(日本降伏後の国共内戦)において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は《よいこと》をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです。」
こういう言葉を聞いて、黒田寿男衆議院議員らは、返答に困ったと思う。あるいは、日本人に対し、気を遣った、何と謙虚な言葉かと思ったに違いない。
 今の日本人だったら、毛沢東の言葉を、そのまま受け取り、「毛沢東さん、よくぞ仰っしゃってくれた。われわれも同じ思いだ。相当、迷惑もかけたが、中国共産党のためになり、また、日本軍が日本文化を広めたことも評価して欲しい。」という者もいるのではないだろうか。
 1964年(昭和39年)7月10日、社会党系の5つの訪中団(佐々木更三視察団、社会党平和同志会代表団、社会党北海道本部代表団、社会主義研究所代表団、全国金属労組代表団)が、北京に行った。「日本軍国主義が中国を侵略し、多大の損害をもたらした、申し訳ない」という佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光に対し、毛沢東は「何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。」と答えたのであった。(注19
1955年8月16日中国外交部は、「日本は1000万人以上の中国人民を殺戮し、中国の公私の財産数百億米ドルの損害を与えた」と損害賠償請求を主張していたのである。
趙安博は、毛沢東や上層部の諒解を得て、上記のように述べたのであろう。日本の旧制一高に学んだ趙安博には、「私の一高時代」という文章が、人民中国雑誌社編「わが青春の日
本ー中国知識人の日本回想」(東方書店・1982年)に収録されているという。(注20
1956年、最高国務会議で、毛沢東は、「人民内部の矛盾を処理する問題について」の講話を発表し、「百花斉放・百家争鳴」を言いだし、知識人へ共産党への批判を述べるよう推奨した。知識人達は、一気に共産党批判を行った。1957年後半、毛沢東は、党を批判した人々を社会主義を破壊する右派であるとして、知識人たちを追放する。57万人が追放されたという。指揮を執ったのが鄧小平、陸定一共産党中央宣伝部長(のち文革で失脚)であった(注21

1966年

1966年(昭和41年)、毛沢東、文化大革命を発動する。
 このとき、林彪、康生、林彪の妻、葉群らは、解放軍総参謀長・公安部長の羅瑞卿を中傷誹謗し、攻撃し、共に、毛沢東に羅瑞卿が反党的である、謀反を企んでいると誣告した。
4月14日、中国科学院院長郭沫若は、自己批判を表明する。
5月4日、中共中央は北京で政治局拡大会議を開き、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆を根拠のないまま「反党・誤謬」という罪名で失脚させた。
 彭真は、北京市党委員会第1書記・北京市長、羅瑞卿は中央書記処書記、陸定一は中央宣伝部部長、楊尚昆は、中央書記処書記候補であった。羅瑞卿は、屋敷から飛び降り自殺を図り、肋骨を折り、両足も複雑骨折し、身障者になった。
 広東省党委員会第1書記の陶鋳が、中央書記処書記へ、李雪峰が北京市党委員会第1書記へ任命された。
5月16日、中国共産党中央は、彭真を批判し、中央文化大革命を設置した。
文化大革命の幕開けである。
 中央文化大革命小組の組長は陳伯達、康生が顧問、副組長に江青、王任重、劉志堅、張春橋が就いた。陶鋳が中央政治局常任委員、顧問を兼任した。
8月18日、北京市の天安門広場。紅衛兵らが文化大革命祝賀の100万人大集会を開く。
8月20日、紅衛兵は、北京の街頭で、「四旧打破」を要求した。
四旧打破とは、人民日報1966年6月1日社説で、旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣を除去せよ、と述べたことによる。
だが、行き過ぎが生ずる。
11月16日、中国共産党中央は、紅衛兵の北京への上京を、1967年3月まで禁止すると、通達した。
12月26日、紅衛兵の壁新聞は、劉少奇国家主席が党中央工作会議で自己批判した、と報道した。翌27日、鄧小平総書記の自己批判を報道した。

1967年

1月31日、黒竜江省に初めて、革命委員会が成立した。
6月17日、中国、西部地区上空で、水爆の実験に成功した。
7月20日、湖北省の武漢市では、文化大革命を支持する造反派と実権派が争い、武漢事件が起こる。武漢軍管区労働者は実権派である。毛沢東、周恩来は、謝富治、王力を伴い、武漢に行き、収拾を図る。毛沢東、周恩来が帰京し、残された謝富治が、武漢の労働者「百万雄師」により、監禁された。これを武漢事件という。謝富治(1909-1972)は人民解放軍の上將、文化大革命中は林彪、江青などに加担し、公安部部長、国務院副総理であった。
8月22日、紅衛兵、北京のイギリス大使館に放火した。

1968年

10月13日、中国共産党は、劉少奇国家主席を永久除名した。

1969年

1969年(昭和44年)。1月、アメリカの大統領にニクソンが就任した。
ニクソンの前任者ジョンソン大統領は、1963年11月22日、暗殺されたケネデイ大統領の後を受けて、副大統領から昇格していた。
1964年8月、米海軍の駆逐艦が北ベトナムの攻撃を受け、戦争状態になっていた。
ニクソン大統領は、ベトナム戦争の早期妥結を国民に公約していた。
そのため、中国首脳との会談を模索していた。
中国は、1963年7月、鄧小平総書記がモスクワを訪問したが、ソ連首脳との会談は成功せず、疎遠になっていた。
1969年3月2日、中ソ国境のウスリー河のダマンスキー島(珍宝島)で、武力衝突が起こった。中国軍の方に相当の被害があった。ソ連の軍隊は、赤軍でなく、秘密警察の軍隊であったという(倉前盛通「新・悪の論理」1980年)。
6月10日、中国とソ連は、新疆西北部でも衝突した。
7月8日、中ソ両軍は、アムール河のゴルジンスキー島で、衝突した。
ソ連は、軍隊をヨーロッパから、中国国境へ移動させた。
ソ連は、1969年10月21日、社会民主党党首ブラントが西ドイツの首相になり、和解し、軍隊を中国国境へまわせた。
中国の中央には、周恩来は残っている。国内の抗争に勝った江青、張春橋…らに外交についてどう考えたか、分からない。
林彪は、のち、ソ連へ亡命を企て失敗し、死亡したとされるが、1969年、ダマンスキー島の衝突事件の頃は、ソ連と戦おう、と主張したようである。
周恩来は、中国はソ連と敵対しており、弟分のベトナムは、アメリカと戦い、近隣の日本(佐藤栄作内閣)は、多少の通商関係にあるが、友好国ではなく、疎遠であり、北朝鮮、カンボジア、ラオスを配下におくか、影響力を行使しているものの、これらは小国で、悩んでいた。
4月1日、中国共産党第9回全国代表大会が北京で開催され、14日、林彪副主席を毛沢東の後継者と規定した。
鄧小平は、すべての職を解かれたが、一定の保護を受け、江西省に送られていた。エズラ・ヴォーゲルは、鄧小平は、江西の工場で働きながら「ゆっくり中国の将来を考える時間をもつことができた」(前掲110頁)という。1966年から69年まで北京にいた鄧小平は、1969年から73年まで江西省にいた。
1969年11月12日、軟禁されていた劉少奇は、非業の死を遂げた。72歳である。
 毛沢東の下で、江青、王洪文、張春橋、姚文元の4人組と周恩来らが対立しつつ、忠誠を競い合う状況が続く。

1971年

1971年(昭和46年)のいつ頃か、周恩来へ、アメリカから信書が送られ、アメリカが国交を結びたい、会いたいとの情報が届いた。アメリカは、ベトナム戦争を早く終えたい、のだ。中国は、ソ連と国境紛争を抱え、関係は良くない。ソ連と戦いたい、という林彪と周恩来の間で、毛沢東をめぐり、綱引きがあったと思われる。
7月、周恩来に、アメリカのキッシンジャーが、極秘で、中国を訪問したのである。
1971年7月9日、パキスタン機で、北京軍用空港にキッシンジャーが着いた。
ニクソン大統領のアメリカは、ベトナム戦争に手こずっていた。1969年から、アメリカは、中国と極秘に接触を図っていたことなど、毛里和子・毛里興三郎「ニクソン訪中機密会談録」(注22)が詳しい。
 7月15日午後10時、駐米日本大使館の牛場信彦大使へ、ロジャーズ国務長官が、「ニクソン大統領は、周恩来の招待を受けて、来年5月までの適当な時期に北京を訪問する。本日午後10時半ニクソン大統領はテレビ放送にて発表する。」と連絡した。
30分前であった。ニクソンかニクソンの周辺の人は、繊維の問題で、佐藤内閣は何もせず、裏切られたという感情があったからだと牛場信彦は述べている(注23)。
それよりも、ニクソンにすれば、日本は、相当、経済力をつけ、財政的に余裕もできたであろうに、ベトナム戦争に、一人も派兵しなかったことに腹を立てていたと思う。韓国は、1965年1月8日、工兵2000人をまず派遣すると決定し、アメリカに協力していた。

注14
萩原遼「朝鮮戦争」(文春文庫・1997年)157・158頁。

注15
「日本人だけが知らない米中関係の真実」(KKベストセラーズ・2015年3月1日)132頁。

注16
古井については、鹿雪塋「古井喜実と中国」思文閣出版・2011年)がある。33頁  以下参照。鹿雪塋(ろく・せつえい)氏は、1975年山東省生まれ、京大で博士号を  取得した女性研究者である。私事になるが、1965年、旧文部省から総理府審議室 に出向していた筆者は、オリンピック後の「体力つくり、健康つくり運動」を唱えてい た古井喜実衆院議員に随行、新潟市や姫路市に出張するなど身近に接した。古井は、  第二次池田内閣(1960年12月8日~1963年12月9日)の厚生大臣及び第一次大平内 閣(1978年12月7日~1979年11月9日)の法務大臣を勤めた。1974年10月22日、 田中角栄首相は外人記者クラブで金脈問題で反論するも、11月26日辞意表明。三木内 閣、福田内閣ののち、親田中の大平内閣ができ、田中が公判中で注目を引いた。鬼塚英 昭「田中角栄こそが対中売国者である」(2016年・成甲書房)68頁、92頁参照。

注17
服部龍二「日中国交正常化」(中公新書・2011年)67頁。

注18
北村稔「中国は社会主義で幸せになったのか」(PHP新書・2005年)146頁。

注19
毛沢東?、東京大学近代中国史研究会訳「毛沢東思想万歳 下」(三一書房・1975  年)185頁~193頁。

注20
服部龍二「日朝国交正常化」(中公新書・2011年)232頁。

注21
中嶋嶺雄・石平「『日中対決』がなぜ必要か」(PHP・2009年)46頁~48頁。

注22
毛里和子・毛里興三郎「ニクソン訪中機密会談録」(名古屋大学出版会・2001年)。

注23
服部龍二「日朝国交正常化」(中公新書・2011年)37頁。