第3章 軍閥時代ー1945年、日本の敗退まで – 後編 - ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月17日

 大東亜戦争の始まる前、日本は、南京に汪兆銘政権をつくったことは知られているが、汪兆銘政権にいたるまでにも、中国人による政権をつくらせ応援した。
 盧溝橋事件が起こったのは、1937年7月、第一次近衛内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)が成立してまもなくであった。
この盧溝橋事件が起こった1937年、影佐禎昭大佐が参謀本部第2部支那課長に就任した。参謀本部は、不拡大方針だったが、現地の軍隊は進軍し、蒋介石は、南京から徐州、漢口と撤退、重慶にいき、重慶政府を作った。

第二次国共合作

1937年9月22日、中国国民政府、中国共産党の国共合作宣言を受諾する。第二次国共合作が成立した。1936年12月の「西安事件」を受けてのものである。
61年後の1998年6月、クリントン大統領は1200人の随行メンバーを引き連れ、9日間、中国に滞在、江沢民総書記を喜ばせた。日本では第二次橋本龍太郎内閣であったが、クリントンは、同盟国の日本の上空を通らず、直接、西安に到着し、「第二次国共合作」を人々に想起させた。日本パッシングのクリントン訪中について、青木直人「田中角栄と毛沢東」(講談社・2002)205頁以下が再検証をしている。
 1937年12月14日、日本の北支那方面軍の指導で、北京に王克敏(清朝時代からの財務官僚)を行政委員長とする中華民国臨時政府(華北政務委員会)が成立した。
 1938年には、南京に梁鴻志(軍閥段棋瑞の腹心の政客)を行政委員長とする中華民国維新政府が作られた。この中華民国臨時政府(北京)と中華民国維新政府(南京)は、1940年3月、蒋介石から離脱してきた汪兆銘の政権に合流する。汪兆銘政権を作ったのは、影佐禎昭大佐である。影佐禎昭については、渡辺望は、「冷徹な謀略家」で、蒋介石の側近張群(蒋介石に従い、台湾にて総統府秘書長。1972年、日中国交回復の際、椎名悦三郎特使の訪問をうく)、何応欽に密書を託すなどした。
 近衛文麿首相は、1938年1月16日、「爾後国民政府(主席・蒋介石)を対手とせず」という近衛声明(第一次)が発表した。この近衛声明をだすとき、参謀次長多田駿は、反対で、声明の発表延期を進言したが杉山元陸相に押さえられ阻止できなかった。陸軍省として交渉打ち切りを唱え、近衛、広田も同調、仲介を申し出たドイツのデュルクセン大使に謝絶した。陸軍は思い上がっていた。近衛は後、この声明を出したことを後悔した。
1938年9月、陸軍は、興亜院という中国占領地を統治する中央機関である役所を設置するよう提案し、これに反対の宇垣一成外相は、9月30日辞任し、12月16日、興亜院総務長官に柳川平助陸軍中将が任命された。柳川は統制派でなく、真崎甚三郎の皇道派で、近衛は、皇道派に同情的であった。興亜院は、北京に北京興亜院を置き、各省から出向させた。文部省から朝比奈策太郎(1891-1968)(のち旧制静岡高校校長)が出向し、北京の中華民国臨時政府の依頼により、国立北京師範学院と国立北京女子師範学院の2校の名誉教授、師資講肆館名誉講師として、国文学者藤村作(1875-1953)(東京帝国大学名誉教授、東洋大学学長歴任)を赴任させた。
藤村作は、1940年2月から、1945年2月まで滞在した。藤村は、多田駿中将の勧めに従い、何もせず、中国人と日本人を観察し、著書「八恩記」において感想を記した。
 なお、満州国では、1937年8月、「建国大学令」が制定され、建国大学が開学した。
 第一次近衛内閣のあと平沼内閣(1939年1月5日~同年8月30日)、阿部内閣(1939年8月30日~1940年1月16日)、米内内閣(1940年1月16日~同年7月22日)、第2次近衛内閣(1940年7月22日~1941年7月18日)、第3次近衛内閣(1941年7月18日~同年10月18日)と続くが、日本政府の方針、命令に現地の陸軍は忠実ではなく、内閣の統制下にない印象を受ける。
 1938年12月18日、重慶の蒋介石政権の下にいた汪兆銘が、昆明を経てハノイに脱出し、1940年3月30日、南京にをつくった。汪兆銘政権(当初、汪兆銘は代理主席)は、蒋介石の「容共抗日」に対し、「反共親日」の汪兆銘政権である。汪兆銘政権について考える時、私は、後ろめたい気持ちをもつ。
1941年10月18日、東條英機が内閣総理大臣に就任した。
12月8日、大東亜戦争を始めた。小室直樹と日下公人は、中国と講和したうえで、日米戦争を始めるべきであったと論じている(「大東亜戦争、こうすれば勝てた」(講談社α文庫・2000年)87頁)。

 私は、黄文雄の次の説明に説得力があると思う。
「そもそも日中双方の本格的な戦争は、じつに盧溝橋事件(筆者注、1937年7月7日)から武漢陥落(筆者注、1938年11月3日)までの1年余りで大勢がが定まり、その後は実質的には日中戦争というより汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府による三つ巴の戦いとなったのである。いわば日中戦争は、列強をも引き込んだ中国の内戦であり、あるいは列強(帝国主義といわれるもの)の代理戦争という側面があった。つまりこの戦争は、基本的には内戦の一環であり、またその延長だった。」(「日中戦争知られざる真実」光文社・2014年)28頁)。
 汪兆銘は、1883年、広東省に生まれ、日本の法政大学に学んだ。清の宣統帝の父、摂政の醇親王の暗殺を企て、逮捕されるが、才気煥発で美男子であったため、釈放された(石平「なぜいつまでも近代国家になれないのか」(PHP・2016年)105頁)。
汪兆銘は、魅力ある人で、それまで冷徹で、汪兆銘を政治利用することに消極的だった影佐であったが、汪兆銘の人柄に触れて、一変している(渡辺望「日本を翻弄した中国人、中国に騙された日本人」(ビジネス社・2014年)143頁)。
1925年3月、孫文が死亡のあと、同年9月、汪兆銘は、国民党の広洲の国民党政府の主席になった。湖南から広洲に駆けつけた毛沢東は、汪兆銘から国民党中央宣伝部長代理に任命される。
 遠藤誉によれば、1883年生まれの汪兆銘は1893年生まれの毛沢東を弟のように可愛がった(「毛沢東」(新潮新書・2015年)57頁)。
1940年(昭和15年)3月、汪兆銘は、南京に国民党政府を樹立する。前年7月、上?におかれた日本陸軍・影佐禎昭大佐(のち中将)の梅機関を通した日本の援助による。
この経緯は、上坂冬子「我は苦難の道を行く 上・下巻」(講談社・1999年)が詳しい。
 1943年(昭和18年)1月9日、汪兆銘の南京政府は、米英に宣戦布告した。同年同日付けで、「租界還付及治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」が結ばれた。
同年3月7日、毛沢東の中国共産党が幹部の馮竜(のち新中国の山東省の政府顧問になる邵式軍の甥)を使者として、汪兆銘の南京政府に合作して、和平統一を申し出ている(上坂冬子前掲書下巻54頁参照。)。渡辺望によれば、汪兆銘を支えるグループは、2派あり、汪兆銘の人柄を慕う側近の陳壁君(汪兆銘夫人)、?民誼(南京政府外交部長)、陳公博(立法院長)らと、国民党の蒋介石と将来は合流しようと考える者で、周仏海は、蒋介石と連絡を取り合う「隠れ蒋介石派」であったが、毛沢東側が周仏海を窓口にしたため、立ち消えになった、毛沢東の中国共産党、汪兆銘の南京政権、日本軍という「反国民党連合」が成立する可能性、「歴史上のイフ」があったとしている(「日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人」155頁)。
1943年10月、日本政府特命全権大使谷正之と中華民国国民政府行政院院長汪兆銘との間で、「日華同盟条約」が調印された。
1943年11月5日、東條英機首相は、大東亜会議を開催した。 タイのワンワイ・タヤコーン殿下、汪兆銘中華民国代表、張景惠満州国代表、フイ
リピン共和国のホセ・パシアノ・ラウレル大統領、ビルマ国のバー・モウ大統領、自由インド仮政府代表のチャンドラ・ボーズが出席した。
深田祐介「大東亜会議の真実」(PHP・2004年)によると、「大東亜会議における汪兆銘の演説は、光彩を放った。」汪兆銘は、こう述べた。
「本年1月9日以来、日本は中国に対し、早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約を以て、日華基本条約に代え、同時に各付属文書を一切廃棄されたのであります。国父孫先生が提唱せられました大亜細亜主義は、既に光明を発見したのであります。国父孫先生が日本に対し、切望致しました所の、中国を扶け、不平等条約を廃棄するということも、既に実現せられたのであります。」「重慶は他日必ずや、米英に依存することは東亜に反逆することとなり、、同時に国父孫先生に反逆することとなるべきを自覚し、將士及び民衆も亦悉く翻然覚醒する日の到来することは必定たるべきことを断言し得る次第であります。」

1943年、大東亜会議において、汪兆銘の体調はよくなかった。
上坂冬子前掲書下巻66頁によると、1935年11月10日、南京で開催された国民党六中全会の記念撮影の場で狙撃され、3発当たり、うち1発が体内に残っていた。1944年3月、汪兆銘、名古屋帝国大学付属病院に入院した。同年11月10日、汪兆銘死去した。同月23日、汪兆銘の国葬が南京政府大礼堂で行われ、遺体は南京の東郊外の梅花山に埋葬された。
南京政府主席には、広東省出身の陳公博が就任した。譚?美「中国共産党を作った13人」(新潮新書・2010年)によると、陳は周仏海ととに、1921年、中国共産党を作った13人に入る人である。2人は、汪兆銘の国民政府に入った。
1945年8月、日本敗戦。陳公博らは日本へ亡命したが、同年10月2日、陳公博、重慶政府に呼び戻され、これに応じ離日する。同年9月9日、蒋介石政権は、梅花山の汪兆銘の墓を爆破した。1946年6月3日、陳公博、銃殺刑に処せられた(上坂冬子「前掲書・下巻」(巻末の年表による)。周仏海は、死刑宣告を受けたが、蒋介石の特赦で、無期懲役に減刑された。だが1948年2月南京の監獄で死亡した。
 汪兆銘を蒋介石から離間させ、南京国民党政権の主席に就任させることに功績のあったのは、既述のように日本陸軍省の影佐禎昭大佐(のち中将)(注13)で、その長女安紀は、谷垣専一(農林官僚・元文相)と結婚、その長男が現自民党幹事長谷垣禎一である。
 汪兆銘政権の官僚に、江世俊という裕福な、文化人の家庭の出身者がいた。国民党の特務機関の一員でもあったともいう。江世俊の異母弟(妾の子)江上青は、共産党員になったが、1939年、匪賊に殺された。江世俊は、自分の三男の江沢民を弟江上青の養子にした。共産党政権下になった。江沢民は、「抗日烈士・江上青の遺児」と称し、共産党入党は1946年(実は1956年)と偽り、南京中央大学工学部の学歴は隠し、順調に出世し、上海市長になった。李先念が、総書記・国家主席に、江沢民を推挙し、胡耀邦、趙紫陽選任で失敗した鄧小平は、この人事を承認した。のち、歴史家呂加平は、江沢民は「漢奸の子」とインターネットで、公表し、江沢民の怒りをかった。呂は、胡錦濤政権で、国家転覆扇動罪で、懲役10年の刑に処せられた。この呂を習近平は、特赦し、このことを幹部会で報告させ、「江沢民は、漢奸の子」であることを「公知の事実」にさせた(加藤隆則「習近平暗殺計画」(文藝春秋・2016年)32頁。)。
 汪兆銘政権は、消滅し、忘れられているが、汪兆銘に対し、日本軍人として1番の理解者で、汪政権の軍事顧問になった影佐禎昭大佐(のち中将)の孫が、現在の日本の政権を担当する自民党の幹事長である。一方、汪兆銘政権の官僚であった者の子が、鄧小平の次の中国共産党の政権担当者として君臨した。汪兆銘とその政権の実態がどういうものか、研究され、知られるべきである。

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1945年8月15日、日本は、ポッダム宣言を受諾し、敗戦した。
日本は、マッカーサーの総司令部の占領下に置かれた。東京裁判で、松井石根は、東條英機、木村兵太郎、東條英機、土肥原賢二、広田弘毅、武藤章とともに死刑に処せられた。
1948年7月、韓国が成立し、李承晩が初代大統領に就任した。同年9月、ソ連の庇護のもとに、北朝鮮と略称される、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が成立した。

注13
影佐禎昭については、前掲上坂冬子「我は苦難の道を行く 上」149頁に「初期の段階から和平工作にかかわった唯一の軍人」、汪兆銘政権の軍事最高顧問を務めた。東條英機から親中派が過ぎると嫌われた。1942年、北満国境の第7砲兵司令官。中将に昇任。1943年、ラバウルの第38師団長へ転任。1945年、ラバウルで敗戦を迎える。
1945年、中国から戦犯の指名を受けるが、肺結核のため裁判にいたらず、1946年、帰国し、1948年9月10日死亡した。渡辺望「日本を翻弄した中国人 中国に騙された日本人」(ビジネス社・2014年)142頁以下。
石井妙子「影を背負って 谷垣禎一」(文春文庫「日本の血脈」(2013年)209頁~246頁、浅田百合子「日中の架け橋ー影佐禎昭の生涯」(新風舎・2003年)(筆者未見)がある。汪兆銘については、深田祐介「大東亜会議の真実ーアジアの解放と独立を目指して」(PHP新書・2004年)。遠藤誉「毛沢東」(新潮新書・2015年)55頁、石平「なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか」(PHP・2016年)105頁。