第1章 江沢民、胡錦濤、習近平 ≪第1部 中華人民共和国小史≫

2016年6月15日

 1989年6月23日、13期全中総会で、天安門事件の不手際の責任を理由に趙紫陽を解任し、江沢民を総書記に据える人事がきまった。鄧小平が上?の党委員会書記江沢民を2階級特進させて抜擢したのである。石平・黄文雄によれば、(注2)鄧小平は、後継者のはずだった胡耀邦と趙紫陽を自ら切らざるを得なくなって、権力が縮小しており保守派の陳雲の推す江沢民を受け容れたという。
 鄧小平は、天安門事件のような騒乱が今後も起こる事態に備え、突発事件処理に長けた指導者が必要だ、として40代後半の胡錦濤を江沢民の次の最高指導者に指名した。これについて、石平は、鄧小平が改革派であるから、団派の胡錦濤も同じ改革派であるとして選んだ、という(注3
鄧小平は、1997年に死亡した。江沢民の任期が来て、2002年、平穏に、胡錦濤が党総書記に就任した。江沢民がなかなか実権を手放さなかったが、鄧小平没後5年、鄧小平の指名を江沢民が尊重したことを考えて見ると、江沢民は、毛沢東、鄧小平のような型破りの人間ではなかった。
 胡錦濤の次の習近平は、鄧小平抜きの初のトップ人事で、江沢民が決めるのか、胡錦濤がきめるのか、世界のチャイナ・ウオッチャーが注目していた。
 2011年7月、党中央の中央党学校で、各地の党幹部500人による政治局員、常務委員を選ぶ模擬選挙が行われたと加藤隆則・竹内誠一郎は報じている。(注4)このとき、薄熙来はまだ失脚してなく、常務委員会入りを狙っている有力候補だった。
 薄熙来は、2012年2月16日、政治局常務委員会で処分された。薄熙来は、英国人ヘイウッド殺人事件、側近だった王立軍を強く叱責、このため裏切られ、王の亡命未遂・機密海外漏洩未遂事件、公金横領公権力不正使用による不正蓄財、海外送金事件によって、起訴され、裁判の宣告を受け失脚した。多くの説はそう解説する。(注5
 ただ、崔虎敏は、薄熙来と王立軍は、依然、信頼関係があり、「不仲説」を流し、薄熙来が、密書、機密情報を託して米領事館に向かわせたとし、真相は異なるとする。
 また、北京大学に留学し、著名人で、中国高官に知人も多いと思われる加藤嘉一は、この通説を信じてなく、「口実」であり、権力闘争であるという(注6

 2007年10月、第17回全国人民代表大会の開催直前、当時、李克強が党総書記に、なると思われていた。1997年、李克強は、中央委員になっているが、習近平、薄熙来は入っていない。胡錦濤が中国共産主義青年団(共青団)出身で、李克強を推すと思われていたからである。
 中国の政界には、この共青団出身の団派、江沢民を頂点とする上?派、そして中国建国に功績のあった人々の子孫を中心とする紅色後代、太子党といわれる3つのグループがあるといわれる。
 第17期中央委員会第5回全体会議で、習近平国家副主席を中央軍事委員会副主席に就任させる人事が決まった。これは、次期の党総書記は、習近平であるということである。
 この人事決定の前に、9人の政治局常務委員と「1ダースほどの元、前政治局常務委員の意向を斟酌するという不文律」があり、この元老達を廻って、曾慶紅(故曾山内務部長の息子)が了承をとった。
 習近平に決めるについて、一般には、江沢民派の願いを通したと思われ、江沢民の側近の曾慶紅が推したとされる。(注7
 2012年9月1日、習近平は、中央党学校校長(2007年就任と思われる)の資格で、秋期開学式の訓示を行い、それから姿を見せなかった。(注8
 習近平は、アメリカ国務長官ヒラリー・クリントン、シンガポール首相李顕龍、デンマーク首相シュミットとの会見が予定されていたが、すべてキャンセルされた。
 9月15日、習近平は、北京での中国農業大学の科学普及活動イベントに健康な姿を現し、一部にささやかれていた病気説、健康不安説が打ち消された。
 9月2日から9月14日まで、習近平は、何をしていたか。高橋博・矢吹晋によれば、次のようである。(注9
「紅色後代」と呼ばれる人々がいる。1949年当時、中共軍の少将級以上の者だった子孫で、全国におよそ4万人、北京近辺に2000人いるという。
習近平は、この人々のうち約1000人の人々と会ったらしい。
 故胡耀邦の子、胡徳平、葉剣英の孫、葉仲豪、徐向元帥の子、徐小岩など100人以上、その家族1000人以上と会い、習近平は、自分の執政方向と理念を説明したらしい。
 習近平は、いわゆる太子党といわれる人々、現在、政権にある者、野にいる者などと単独で、あるいは各家族と一緒に会い、自分の執政の方向と理念を説明し、会見した者の8割の支持を得たという。前述の胡徳平などは、「反対はしないが、全力で支持する」という態度表明もしなかった。また、曾慶紅も「異なる意見」を述べたという。
 紅色世代は、全国におよそ4万人、北京とその近辺に2000人余りいて、習近平は、これらの人々に会い、支持を取り付けた。矢吹晋・高橋博前掲は、「紅色後代」としているが、一般には、「太子党」と呼ばれているものと同じと考える。
なお、9月7日、ロイター通信は、習近平が胡耀邦の長男胡徳平と密会し、自分は、薄熙来の仲間ではなく、厳格に法に従い薄熙来事件を処理すると説明したと報じた(注10

注2
石平・黄文雄「『中国の終わり』のはじまり」徳間書店・2012年)83頁。

注3
前掲、黄文雄・石平「『中国の終わり』のはじまり」84頁。

注4
加藤隆則・竹内誠一郎「習近平の密約」(文春新書・2013年)23頁以下は、江沢民、 胡錦濤、習近平の間で、激しい駆け引きがあったことを述べる。

注5
たとえば峯村健司「13億分の1の男」(小学館・2015年)110頁。

注6
崔虎敏「習近平の肖像」(飛鳥新社・2015年)178頁。加藤嘉一「脱中国論」(日  経BP社・2012年)66頁。

注7
鳥居民「現代中国を読み解くー鳥居民評論集」(草思社・2014年)105頁。
 鳥居は、100億円の資産をもつ曾慶紅が85才の喬石、79才の尉健行、93才の宋 平、75才の羅幹により、偽君子として非難されたこと、習近平を後継者に推したのは 胡錦濤と温家宝であるともいい、「胡・温派が抱き込んだ」といっている。富坂聡「習 近平と中国の終焉」(角川SSC新書・2013年)80頁~123頁は、太子党で、地域での 政治家経験が貧弱だが、陳雲、賈慶林、周永康、江沢民の4人の長老の支持などを挙げ ている。石平も江沢民と結んだ曾慶紅が習近平を選んだという。黄文雄・石平「『中国 の終わり』のはじまり」(徳間書店・2012年)87頁。

注8
中国共産党中央党校(党校)は、部長や局長クラスが役職につく前に3カ月ほど、 共産党の歴史、理念、目標、政策などについて、缶詰教育を受け、洗脳させる共産党の 学校である。校長には共産党のナンバー2が就く。中国の要人が思想的に哲学的に中央 の方針から逸脱した発言をしないのは、この学校の存在があるからである。以上、丹羽 宇一郎「中国の大問題」(PHP新書・2014年)43頁。富坂聰「習近平が消えた2週間『深刻な病状』」文藝春秋2012年11月号114頁 は、「脳供血不足」という心臓病でない か、いずれにせよ体調を崩している、と伝えた。

注9
矢吹晋・高橋博「中共政権の爛熟・腐敗ー習近平「虎退治」の闇を切り裂く」蒼蒼社・2014年11月)30頁)。

注10
胡耀邦が総書記のとき、福建省の党員会書記に誰を当てるか迷い、習近平の父、 習中勳と相談、項南(1918-1997)を任命した。項南が福建省へ赴任すると間もなく、
 胡耀邦の長男胡徳平の当時の妻、安黎(当時、中国食品工業協会副秘書長)が、胡耀邦 に内密にやってきて、「厦門市の副市長に任命して欲しい」と陳情した。項南は、安黎 を厦門市の副市長に任命した。安黎は、副市長用の宿舎を使わず、一流ホテルに住み、 贅沢の限りをつくし、部下に威張りまくった。この悪評が、胡耀邦の耳に入り、安黎は、 北京に戻され、全ての役職を解かれた。1983年6月15日、厦門市副市長に任命さ れたのは、32歳の習近平である。その後、胡徳平(1942年生まれ)は、安黎と離婚 し、26歳年下の王預?と結婚したようである。遠藤誉「チャイナ・セブン」(朝日新 聞出版・2014年)75頁など。