インドシナ難民受け入れ事業の思い出(前編)

2016年4月26日

2016年4月4日、大家 重夫

はじめに

 37年前の昭和54年(1979年)、日本は、ベトナム、カンボジア、ラオスの難民を受け入れて、日本語の教育をし、就職を斡旋し、日本の国内に定着させた。
 3国のインドシナ難民の受入数は、昭和54年4月、閣議了解で500名の定住受け入れ枠を決めた。
昭和55年6月、閣議了解により、1,000人に拡大した。
昭和56年4月、閣議了解により3,000人に拡大した、
昭和58年11月1日、閣議了解により5,000人に拡大した。
昭和60年7月9日、閣議了解により、10,000人へ拡大した。
平成7年12月6日、閣議了解により定住枠10,000人を撤廃した。
実際に、インドシナ難民は、1万人以上が、日本へ定着した。
インドシナ難民といわれる人、その子で日本で生まれた人、母国から呼び寄せられられた親族をいれて、平成7年(2005年)現在、11,319人という。
 この内訳は、ベトナム 8656人、カンボジア 1,357人、ラオス 1,307人である。2016年現在、もっと多いと思う。
 私は、このインドシナ難民を日本へ受け入れる事業の一端を担当した。思い出を綴ってみたい。

1、内閣へ出向-内閣審議官を拝命

 文部省の役人である私は、1977年(昭和52年)4月18日付けで、文化庁文化部著作権課著作権調査官という役職に任命されていた。
 1979年(昭和54年)7月13日、広島市で、総理府系の団体、日本広報協会から都道府県広報担当者を対象にした会合に招かれ、私は、著作権法の概要を喋っていた。メモが入り、本省へ電話をするようにというものだった。休憩時間に電話を入れると、新しく設置される内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議への異動を知らされた。
 7月16日、内藤誉三郎文部大臣名で、初等中等教育局視学官に任命された。視学官室にいくと、私の机が用意されていた。10人ほど在室されている大部屋である。
 私の月給は、視学官として、ここから振り込まれ、1982年(昭和57年)7月9日まで続く。内閣官房に定員がなく、あるいは内閣官房に定員はあるがこれを使わず、視学官の定員を借用したのである。視学官室で、茶話会が行われ、感激したものである。
 7月18日、内閣総理大臣のいる官邸の向かいの総理府5階に行く。大平正芳内閣総理大臣名で、翁久次郎官房副長官から、内閣審議官に任命する、との辞令書を頂く。
 翁内閣官房副長官の下、外務省の村角泰(のち色摩力夫)、法務省の黒木忠正(のち桔梗博至)、文部省のわたし、労働省の向井舜治(のち手嶋氏(平成23年亡くなられた))、厚生省の辻宏二、外務省の古川満(平成10年頃亡くなられた)、総理府の小出秀夫というメンバーが集まった。大蔵省の新居健氏も兼官でこの時、顔を見せたが、予算に関することは、連絡して欲しい、といって総理府庁舎には殆ど来なかった。
 私達は、内閣審議室の分室の格付けの「インドシナ難民対策連絡調整会議事務局員」になった。
 内閣審議官として、内閣官房入りといっても、余り気後れはしなかった、昭和40年から昭和42年まで、内閣審議室(総理府審議室兼務)に係長クラスの事務官として出向、「明治100年記念事業」「祝日としての建国記念の日の制定」「体力つくり運動」「小さな親切運動」などの末端の仕事をしていたからである。当時、賞勲局長と明治百年事業の長を兼ねておられた加賀藩士の末裔の岩倉規夫(1913-1989)さんは、国立公文書館館長に就任されていた。挨拶に伺うと、「内閣審議官は少ないから値打ちがある、偉くなったね」と冷かされ、励まされた。岩倉さんは、書誌学者であられたが、中江兆民の長男中江丑吉の研究をされていると仰った。私は、この頃、内務官僚で著作権法を起草した水野錬太郎貴族院議員・元内相・元文相に興味をもち、遺族を探していた。岩倉さんに伺うと、町村金吾衆院議員(町村信孝議員の父)(内務省の人事課長をされていた)を紹介され、錬太郎の次男水野政直氏(共同通信部長)にたどり着いたことがあった。岩倉規夫氏からは御著書「読書清興」(汲古書院・1982年)を頂戴するなど親しくさせて頂いた。

2,インドシナ難民流出-の背景

 1964年(昭和39年)8月2日、米国務省は、北ベトナムが米駆逐艦を攻撃したと発表、米軍は、同月4日、北ベトナム海軍基地を爆撃した。同月7日、米議会は、大統領に戦争遂行権限を付与し、米国は、ベトナムへ軍事介入を始めた。
 8月11日、池田勇人内閣は、南ベトナムへ、緊急援助を決定し、米国を支援したが、自衛隊は派遣しなかった。
同年11月9日、佐藤栄作内閣になるが、佐藤内閣も自衛隊を派兵することはなかった。
1965年1月、韓国は、南ベトナムへ派兵を決定した。
 日本では、1965年4月、鶴見俊輔、小田実、高畠通敏、吉川勇一らがベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)を作った。(注1)ベ兵連は、脱走米兵を匿ったりした。(注2
 「何でも見てやろう」の小田実、「思想の科学」の鶴見俊輔(注3)は、当時、一般の注目を集め、知識人に人気があった。
 一方、与党の松田竹千代衆議院議員(もと衆院議長)は、後述するようにベトナムで、孤児になった児童の収容施設をつくり、そのための基金集めを提唱し、国会議員に呼び掛けて、歳費の一部を拠金させ「アジア孤児福祉財団」を作っていた。昭和43年頃であった。
昭和50年4月、南のサイゴン市(のち、ホーチミン市)から、アメリカ軍が引き上げた。グエン・カオキ首相等の南ベトナム政府の高官らは、アメリカ軍が伴って、アメリカに行った。
 同年5月12日、日本船は、ベトナム人ボートピープルを救助し、この人々を日本に上陸させた。この昭和51年頃、行きは自動車を運び、帰りは、石油を中近東から運んでいた。(注4
日本や外国の船舶が、ボートピープルーを救助した、との報道が頻繁になされた。
昭和52年(1977年)、外務省が主導し「ベトナム難民対策連絡会議」を設置した。
対象は、ベトナム人のみであった。
昭和53年(1978年)2月14日、衆議院の予算委員会で、奥野誠亮議員が、インドシナ3国の難民について質問した。
奥野議員は、第二次田中角栄内閣の文部大臣(1972-1974)をされ、こののち、1980年の鈴木善幸内閣の法務大臣、1987年の竹下登内閣の国土庁長官になる。
 奥野は、ベトナムからアメリカに渡った人が15万人を超えたこと、ラオスとカンボジアから、タイに逃げた人が15万人であること、ベトナムから小舟で200キロから300キロの沖合でそこを通過する外国航路の船に救いを求める者、運よく救われるのは2割を切ると言われるが、3年前、百数十人、2年前、二百数十人、1年前八百数十人、合計1200人を超えること、難民15人を乗せた船が日本に寄港し、引き取り国が決まらず、13人は、上陸を許されなかったなどの話ののち、次のように質問した。
「引き取り国が決まっている難民についてのみ」一時上陸を許し、そうでない難民は一時上陸を許さなかったが、「現在は、その難民の引き取り国が決まってなくても上陸が許されるようになったかどうか、難民関係閣僚協議会を設けられましてから、その後に方針の変更があったかどうか。」という質問をした(この質問に対する答弁は別に掲載する)。
 昭和53年(1979年)、6月28日、いわゆるサミット、先進国首脳会議が東京で開幕した。
大平正芳首相、英国サッチャー首相、カナダのクラーク首相が初参加、あと、カーター米大統領、デスカールデスタン仏大統領、シュミット西ドイツ首相、アンドレオッチ伊首相のG7である。
ここで、日本もベトナム、ラオス、カンボジア3国の難民受け入れを正式に決めた。大平首相は昭和53年12月1日組閣するが、それまでの福田赳夫総理へ、昭和52年1月20日就任のカーター大統領が、日本へ、難民を受入れるよう申込んでいたようである。

3,国内受け入れ体制

 当初、総理府に事務局を置く予定であったと思われる。
しかし、総理府総務長官が部下から突き上げられ、総理府に「難民対策室」、「難民対策課」という室や課を置くことを断ったらしい、という噂を聞いた。何人か、総理府プロパの知人もいたし、文部から総理府へ出向した者もいた。誰から聞いたか、もう覚えていない。総理府は、各省に跨がる業務を担当する事務室を多く抱えていた。青少年対策本部、北方対策本部、交通安全対策室、老人対策室、同和対策室…とたしかに多かった。その話を聞いて、尤もだなと思ったものである。
 うまみのない仕事には、どの省も権限争いはしない。難民を受け入れる業務は、これに当たる。
 そこで、各省が、難民事業のうち、各省が、自分の業務範囲の中で、仕事をする、内閣が連絡調整する、その事務局を内閣に置く、という形態になった。
 またその省庁の業務範囲に含まれなくても、他の省庁が(難民対策)事業を行っても、どの省庁も文句はいわない、ということも意味した。
 各省が一体となって、この事業を行うため、内閣に、「インドシナ難民対策連絡調整会議」をおき、その事務局を置くことにした。
この前に、「ベトナム難民対策連絡会議」が設けられ、1977年、総理府に「ベトナム難民対策室」が設置され、法務省入国管理局の黒木忠正氏が配属されていたから、その後身でもある。
 厚生省出身の翁官房副長官は、大平総理や田中六助官房長官から、受け入れ事業の事務局作りを命ぜられて、こういう仕組みを考案した。
 中心となる事務局長は、外務省が出すことになった。内政については不得意な外務省が前面に出ることになった。これは、大半の予算を外務省が負担することでもあった。
 外務省からの初代は、村角泰氏(注5)で、2代目は色摩力夫氏(注6)である。
色摩氏とは、のちのち、交遊が続く。色摩さんは、南米の大使ののち、浜松の常葉大学教授に就任され、著書論文多数の大変な学者で、のち、わたしが久留米大学の教員になってから、市民講座の講師として「オルテガ」などを講じて頂いた。夫人が佐賀県多久市のご出身のため九州へ喜んでおいで下さった。
 ナンバー2は、法務省の入国管理局から黒木忠正氏(注7)で、ボートピープル救助の事例が増えたため、1年前から内閣に出向していた。難民問題の一番の専門家である。法務省の2代目は桔梗博至氏(注8)である。村角、黒木両氏は、昭和55年度を終えると、本省に戻られたが、私は、56年度、3年目にもここにいたため、色摩さん、桔梗さんとも知り合えた。
 ナンバー3が私、難民を日本社会に受け入れる、そのためには、日本語教育が必要だ。そこで、文部省からも人を出せ、と内閣にいわれ、文部省の古村澄一総務課長は、課長級の人を出し、難民のために日本語教育を担当すると、内閣に伝えた。そして私が選ばれたのだった。
 厚生省と労働省が課長級の人を、何故、出さなかったのか、今も、私の疑問である。
 各省が一体となって、この事業を行うため、内閣に、「インドシナ難民対策連絡調整会議」をおき、その事務局員という格付けである。事務局員では格好が付かないので、「内閣審議官」という「身分」のような肩書きをいただき、名刺に、内閣審議官と刷り込んだ。
総理府の5階に、事務局を置く事になり、田中六助官房長官が墨書の看板を掛け、挨拶された。小倉出身のわたくしは、同じ福岡県田川の田中六助さんが、池田勇人番の日経記者であったこと、宏池会で、前尾繁三郎でなく、大平正芳を擁立した論功もあり、官房長官になったことをのちに知った。
 看板を掲げ、挨拶をされたとき、田中六助さんが、「インドシナ」というところを「インドネシア」と間違われて言われたことを思い出す。
 政務の内閣官房副長官は、加藤紘一衆院議員であったが、私は殆ど会っていない。
 翁内閣官房副長官は、温和な方で、ときどき、我々の部屋を覗いて、声をかけてくださった。

4,アジア福祉教育財団へ事業を委託する

 われわれ「インドシナ難民対策連絡調整会議」事務局員が、難民の受け入れ事業を、直接するわけではない。
 団体を新規に設立して、そこに委託するのが望ましいが、それは、時間的に困難である。
翁内閣官房副長官の知恵であると思うが、(財)アジア孤児福祉財団を改組し、ここに難民事業本部を新たに設置し(付加して)、ここに各省から委託費を支出する仕組みになった。(注9
外務省が、難民事業本部の人件費を、文部省が、日本語教育の教員の人件費を、厚生省、労働省がそれぞれ、関係する費用を負担した。
難民事業本部は、定住センターを設置し、そこで難民に住まわせ、日本語教育を施し、職業訓練、職業紹介を行い、日本社会に送り出す、のである。
(財)アジア孤児福祉財団とは、大阪出身、松田竹千代代議士(1888-1980)が、中心となって作った団体で、ベトナム戦争当時、ベトナムで孤児となった子供達のためのベトナムの施設へ、援助金を集めて拠出する団体であると聞いた。調べると次のようであった。
松田竹千代氏は、昭和3年の総選挙にて、民政党から衆議院議員に当選、戦争を挟んで12回当選、第二次鳩山一郎内閣で郵政大臣、第二次岸信介内閣で文部大臣、昭和43年7月16日から44年12月2日まで衆議院議長であった。昭和47年総選挙に落選し、政界を引退した。
 昭和40年、松田竹千代は、南ベトナムを訪問、戦争による孤児、母子の悲惨な状況を目にして、帰国後、その実情を述べ、日本からの援助の必要性を自由民主党両院議員総会で、訴えた。
 昭和42年、衆議院の決算委員会で、社会党の華山親義義員(注10)が、ベトナム難民救済のため、ベトナム協会なる法人に補助金を支出するのは、憲法89条違反でないか、と質問している。
 内閣法制局次長吉国二郎政府委員は、「本件は、ベトナム共和国政府の要請に基づきまして、日本国政府が、外交上の見地から、難民救済のために」「ベトナム協会を、いわばその手足として使」い、ベトナム共和国政府に対して難民救済のための物資を供給するという事業を行った、「その難民救済のために必要な物資を購入」「梱包し、運送するということは、すべて日本政府の責任で」行った、憲法89条の問題は生じないと、答弁した。
また、補助金としているが委託金であり、外務省にその事務的な能力がないから、6000万円について、事務の処理を、単に、ベトナム協会を選定し、委託した、憲法89条には違反しないと回答した(55回、昭和42/6/17、衆・決算・18号1頁)。
 昭和43年3月22日の自由民主党総務会において、ベトナムの孤児・母子のために、昭和43年10月から、毎月1,000円ずつ60ケ月にわたって、各自の歳費から拠出することが決定した。この拠出金総額1,500万円を基金として、第二次佐藤栄作内閣、愛知揆一外相当時、「財団法人ヴェトナム孤児福祉教育財団」が設立された。昭和44年12月12日許可、事務局は、東京都千代田区一番町3-3日生ビルに置かれた。
当初の役員は、松田竹千代、茅誠司、永野重雄、井出一太郎、葛西嘉資、新国康彦、
今里広記、桜内義雄、根本龍太郎、奥野誠亮、鈴木善幸、橋本登美三郎、小沢辰男、高木武三郎、藤尾正行、川島正二郎、坪川信三である。
奥野誠亮議員、桜内義雄議員は、昭和45年、ベトナムに派遣され、10億円の基金が必要であると考え、奥野誠亮議員等は、財界、各種団体に呼び掛け、10億円を集めた。
ビエンホア郊外に孤児を対象に、農業、機械、電気、土木の全寮制職業訓練校を建設、一学年100名、総員400名の施設を作った。
 昭和46年(1971年)、ベトナムに限らず、アジアの国の孤児にも救済ができるように、団体の名称を「アジア孤児福祉教育財団」と改称し、事務局は、千代田区一番町6-4、6番町マンションに移転した。
昭和48年9月、100名の新入生を受け入れの式典には、チャン・チエン・キエム南ベトナム首相、松田竹千代夫妻が臨席した。
昭和50年4月28日、北ベトナムの猛攻により、、訓練所の生徒はビエンフォアからサイゴンに引き揚げた。同年4月30日、南ベトナムは、北ベトナムに無条件降伏した。
昭和51年5月、松田竹千代理事長は、辞意を表明し、後任には、満場一致で、奥野誠亮氏に決まった。

5,難民事業本部

こうして、奥野誠亮元文相が理事長である「アジア孤児福祉財団」は、その名称を変更し、「アジア福祉教育財団」となり、そこに「難民事業本部」を付加することになった。
 7月19日、わたしは、日本赤十字社社会部長片岡経一氏、社会福祉法人日本国際社会事業団常務理事伊東よね氏にお目にかかっている。
 7月26日、アジア孤児福祉財団の藤川芳正理事、そして牧園満事務局長に会っている。
このあと、奥野誠亮先生にお目にかかるが、何時だったか記憶、メモにない。先生は、田中角栄内閣で、文部大臣を1972年12月22日から1974年11月11日まで勤められたが、文化庁著作権課の課長補佐として、ハンコを貰いに大臣室に伺ったことが一度か二度ある程度の面識であったと思う。
「難民事業本部」に人員をおくこと、その建物を探すこと、が必要になった。
 昭和54年8月3日付け、朝日新聞に「難民受け入れ財団方式、月内に発足」と報じられた。
 アジア孤児福祉財団の寄付行為を変更し、名前も変更した
 わたしは、辻宏二氏と一緒に、内閣法制局を訪問し、政府からアジア福祉教育財団へ委託費を支出することに、憲法89条等の関係で問題はないか、などを問い合わせ、勿論差し支えなし、との返答を得た。また、カソリックの土地を借用し、バラックを建てることも問題なしとの回答を得た。担当参事官は、のち最高裁判事になられた大出峻郎さんだった。大出さんには、文部省の頃、何度かお目にかかていた。89条については、後述する。
アジア孤児福祉財団は、当時、千代田区六番町の六番町マンションにあった。ここは狭く、同居できず、われわれは、難民事業本部の事務室を探すことになった。
森ビルやランデイックという会社などを訪問し、そこの紹介で、新橋、東京タワーの下などを見て廻った。
総理府に近い所ということで、赤坂2丁目10-9ランデイック第二赤坂ビルの4階にきめた。村角さんも賛成されたが、外務省難民対策室の田口省吾氏もがここがいい、と大賛成されたことを思い出す。外務省には、難民対策室がやや早くできており、今川幸雄氏が、1979年から1982年まで、難民対策室長であった。今川氏は、のちカンボジア大使、関東学園大学教授になる。田口氏は、亡くなられたという。日経新聞の文化欄に、「ガーター勲章」の由来など外国の勲章についてのエッセイを掲載された。

6,難民事業本部の人員構成

この難民事業本部に各省から、人員を派遣することになった。
この事業は、外務省が中心となり、予算は、外務省から難民事業本部の人件費を含む大部分の額を負担した。文部省は、日本語教育関係である。労働省は、職業斡旋の関係である。
難民事業本部の本部長は、労働省の小守虎雄氏に、総務課長には、法務省の岩本晃氏、日本語教育を担当する調査課長には、文部省から鷲塚壽氏が就任した。
 調査課長の人事は、わたしが文部省の国際学術局長篠澤公平さんに会い、相談し、当時、三重県の鈴鹿高専庶務課長だった鷲塚壽氏に決めた。鷲塚氏が文化庁国語課に在籍していたこと、会計課の経験があり、どういう予算を要求すればいいか、予算に明るいこと、などから、調査課長にお願いしたもので、適任だった。
この原稿を書いている平成28年には、考えられないことだが、昭和54年当時、実行されたことは、この難民事業本部へ、都市銀行からの出向者を受け入れたことである。当時も今も、公務員は簡単に増員できない。翁官房副長官か村角泰連絡調整会議事務局長が直接、都市銀行に依頼されたのであろうか。
いまも、ときどき会う呑み仲間の高橋正弍氏は、東海銀行から、増田孝行氏は、第一勧業銀行からであった。ちなみに、半年に一度、飲む場所は、カンボジア難民出身者の経営する代々木駅近くの「アンコールワット」である。
 ラオスへ派遣されていた青年海外協力隊の出身の元気者の開原紘氏も難民救援事業の適任者であった。私立大学事務局に勤務されていた下平和雄氏、松本基子氏(のち皇學館大学社会福祉学部教授)、森永兼一氏(2016年現在、勤務されている)、寺本信生氏(2016年現在、現役で勤務されている)…が、難民事業本部に馳せ参じた。
 なんといっても、農林省外郭団体から世界食糧機構(FAO)勤務を経験された内藤健三氏の参加が有難かった。国際人である内藤さんが初代の大和定住促進センターの所長を務められ、外国人達にも評判がよかった(内藤氏は平成27年4月30日逝去された。ご子息は、文部科学省に入省され、現在、千葉県教育長。)。
銀行出身の人を含め、難民事業本部の職員は優秀であった、とのち、鷲塚氏から聞いた。

7,「定住促進センター」の設置-カトリックと立正佼成会の世話になる

 インドシナ難民を収容し、日本語教育を実施し、就職斡旋を行う場所を設置すること、国内に遊休施設がないか、探すことが最重要の課題であった。
 7月には、大蔵省理財局国有財産総括課長、通商産業省総務課長、運輸省海運局外航課長、海運渉外官、農林水産省経済局国際部国際協力権課長補佐、労働省職業訓練局海外技術協力室長、自治大臣官房企画官、文部省総務課長などに会っている。
 大学時代の同じクラスだった男が東京電力にいることを思い出し、東京電力にもいった。
原子力業務部副部長の名刺が残っている。のち、和歌山県の白浜の奥の土地を見に行ったことがある。
 さきに述べたように、難民を収容する定住促進センターをどこに作るか、各省庁にお願いした。さらに、各都道府県にもお願いした。
 どの省庁も、どの県も遊休施設はなかった。わたくしの能力不足といったらそれまでであるが、当時の建設省などが本気になれば違ったであろう。外務省、法務省、文部省出身の内閣審議官では、簡単に、定住センターを決めることが出来なかった。
 カソリック教会が、進んで提供すると申出られて、その言葉に甘えることになった。
結局、関東に1箇所、関西に1箇所、定住促進センターを置くに至るが、神奈川県の大和市、兵庫県の姫路市に置くことになった。
 姫路定住促進センターは、仁豊野という姫路市の郊外にあり、もう少し奥に行けば柳田国男、松岡映丘の生家がある福崎町がある。
カソリック教会の横に姫路聖マリア病院があり、その一角に定住促進センターを作った。
 難民の子供は、すぐ近くの砥掘小学校に通った。
 最近、ベトナム難民の有志によって、センター跡地に「感謝碑」が建てられた(「愛」39号41頁)。
 姫路も大和市もカトリックの教会のカリタス・ジャパンの土地である。
定住促進センターでは、3月の日本語教育を行い、就職斡旋をするのである。一時滞在施設がいつも必要であった。日本に到着し、すぐ、この二つのいずれかに入所できる者は幸せである。一時滞在施設としては、立正佼成会の千葉県天津小湊町でも難民を引き受けて下さった。何度か、小湊へ行った。
関東では、カトリックの松村菅和神父、関西.姫路では、ハリー・クワドブリット神父、立正佼成会では、宮坂光次朗国際課長、鈴木耕太郎氏、千葉県の小湊教会の青木健蔵教会長にお世話になった。宮坂さんとはいまだに年賀状のやりとりが続いている。
 カトリックが協力してくださることになり、村角局長、黒木審議官以下、われわれは、本当に喜んだ。松村菅和神父、クワドブリッド神父のお蔭である。
 私は、2010年、常勤の仕事がなくなり、東京に戻ったのを機会に、松村菅和神父には、一度、お目にかかりたいと思った。関係者に伺うと、2004年3月8日、82歳でお亡くなりになっておられた。改めて、御礼を申し上げ、ご冥福を祈りたい。
 しかし、大和市の場合、付近の住民に説明会を行い、市民、市会議員を説得する仕事があった。
 黒木審議官は、承認を得るまで、連日、大和市へ通った。住民集会が何度も開かれ、わたしも1度、出席参加した。
 住民は、難民が乱暴をするのでないか、町が物騒になるのでないか、こういう質問に、黒木さんは、ボートピープルの難民は体力が衰えている者が多く、そんなことはない、ベトナム、カンボジア、ラオスの難民の人々は、温和であることを、を丁寧に説明された。黒木さんの説明に納得した遠藤直市会議員(のち市議会議長)は、付近の住民を説得する側に廻った。もと市会議員の遠藤さんと黒木さんは、いまだに年賀状のやりとりが続いているという。
 また、定住センターではなかったが、約20人のベトナム難民を立正佼成会の千葉県天津小湊で引き受けてくだっさったのだった。宮坂さん、青木さんのお骨折りで、有難かった。高橋典史氏による論文がある。(注11
国家と宗教団体との付き合いは難しい。
憲法20条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定し、89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」
津地鎮祭事件の最高裁判決(昭和52年7月13日判決民集31巻4号533頁)によって、一応の基準が定まっている。
 少なくとも、絶対的に分離ということは不可能で、難民を救済する、難民にとりあえずの住居を与える、といことについて、政府、地方公共団体も即時に対応できなかった。
 このとき、カソリク教会、立正佼成会などが土地を提供して下さった。内閣法制局の見解で、政府が、宗教団体の土地を借用することについて、憲法違反でない、とされた。しかし、政教分離の絶対的分離説にたてば、憲法違反といわれるであろう。
 約33年振りに、村角さん、黒木さんと会合を持ったおり、カソリックの松村神父、ハリー神父の名前がでて、改めて、私達は、カソリックと立正佼成会に感謝したのだった。
 奥野誠亮先生は、1980年(昭和55年)7月7日成立の鈴木善幸内閣に法務大臣に入閣された。法務省には入国管理局があり、難民事業本部、われわれ内閣の難民事務局員は、「これは仕事がしやすくなる」といった気分になった。
 法務大臣になられて3か月、1980年(昭和55年)10月30日、参議院法務委員会において、自民党の戸塚進也氏が「靖国神社国家護持法案を早く提出したい。靖国神社に参拝した閣僚の1人として、法相はどう思うか」と質問した。奥野法相は、「憲法上の宗教的活動(の内容)について、制定当時、十分議論されたかどうか疑問を持ち続けている。私が靖国に参拝するのは、国のために犠牲となった人への感謝の気持ち(の表明)であり、(一般の宗教的活動のように)特定の教義に共鳴してその活動に参加しているわけはでない」と答え、「参拝は必ずしも宗教的活動には当たらない」「私が8月に参拝したのは『私人(の資格)』で参拝した。」「『私人』といわねば、問題になる。早くなんとかしてもらいたい」と強調した(読売1980年10月31日)。
同年11月5日、衆議院法務委員会で、稲葉誠一議員(社会党)が、靖国神社への公式参拝をどう思うか、について、奥野法相は、「政府は、靖国神社への公式参拝は、憲法20条3項で疑義がある、と思っている。私は、憲法20条3項は靖国神社の公式参拝まで禁止していないのでないか、と思っている」「1,憲法20条はマッカサー草案のままで変わっていない。2,憲法制定当時、靖国神社への公式参拝ができるかどうか、議論されていない」「『宗教的活動』がもう少し広い意味を持っていれば、今日のような混乱は起きなかったと思うと」と答弁した。
 宮沢喜一官房長官は、「奥野発言は個人的見解」と語り、奥野法相は憲法論を述べたのでなく靖国神社論を述べたのでないか、と語った(1980年11月6日各紙)。
 奥野先生は、1981年11月3日まで、法務大臣を勤められた。
第二次鈴木善幸内閣が、1982年11月7日終わると、中曽根康弘内閣が、1982年11月27日から1987年11月6日まで約5年続く。
 このあと、1987年11月6日、竹下登内閣に、奥野誠亮議員は、国土庁長官として入閣する。

8,内閣法制局との協議

前に述べたが、アジア福祉教育財団難民事業本部へ、外務省から委託費、文部省から日本語教師への謝金等国費が支出されること等について、内閣法制局大出峻郎参事官(のち最高裁判事)を訪問し、了承を得た。
 次のような議論があった。

  1. インドシナ難民救済事業は、国の事務か。
     これについて、インドシナ難民問題は、発生した初期の段階は民間の慈善団体の自主的な活動に委ねられたが、難民の数が増加し、国際政治に及ぼす影響が大きくなり、政府として、人道に関する国際協力の一環として、積極的に取り組む必要に迫られてきた。
    昭和52年9月20日付け閣議了解に基づき、政府の方針をきめ、この時点で、インドシナ難民救済事業を国の事務と認識し、特に昭和54年4月3日及び同年7月13日の閣議了解で、インドシナ難民救済事業を国の事務として「推進することが了解された。
  2. インドシナ難民救済のため、国が財団法人に事務を委託し、これに必要な委託費を支出することは、憲法89条後段との関係で問題がないか。
    憲法89条後段は、国・地方公共団体が、公の支配に属しない慈善事業、博愛事業等を財政的に「援助」することを禁止する規定であるが、公の支配に属しない慈善団体等が、国や地方公共団体の事務を、その個別の委託に基づいて行い、これに伴う実費をうけることは差し支えない。
  3. インドシナ難民救済のため、国が宗教団体に対し、委託金を支出することは問題ないか。難民救済事業は、「慈善又は博愛」の事業と考えられる。89条前段は、信教の自由と宗教団体に特権を与えることを禁止している。憲法20条の趣旨を財政面から規定した。宗教団体を特別に援助することにならないような、公金その他の公の財産の支出であれば、差し支えない。
  4. 難民救済事業をある団体に委託し、そこから更に他の団体に再委託することは問題ないか。
     難民事業は多岐にわたる。しかし、始めから格別の団体に委託するのも現実的でない、
    国は、事業を中核的な団体に委託し、当該団体を通じてさらに再委託すること、再委託先は過去に実績のある団体にすることは、許したい。ただし、再委託はあくまで、難民救済事業を効率的に運営するための措置で、事業委託に際し、、当初より再委託を認めることを明確にしている場合、予算執行上、会計法上問題はないと考える。

9,日本語教育-吉田彌壽夫教授、西尾珪子さん

 鷲塚壽調査課長とともに、文化庁国語課長室屋晃氏、上岡国威課長補佐、専門職員、そして国立国語研究所日本語教育センター日本語教育研修室長水谷修氏、野元菊雄国立国語研究所長にお目にかかった。水谷修氏は、名古屋大学教授、国立国語研究所長、名古屋外国語大学長をされた。2014年12月、81歳で亡くなられた。
 水谷修氏が座長格で、国語課で、協議会が開かれ、日本語教育は、3カ月、関西における日本語教育は、吉田弥壽夫教授にお委せするのがいいと、推薦されたように思う。
 昭和54年10月30日、大阪へ出張し、上岡国威課長補佐とともに大阪外国語大学留学生別科主任の吉田彌寿夫教授(1927-2005)に会う。
姫路で行う日本語教育の統轄をお願いする。
姫路の定住センターの教師団で、リーダーであられた北尾典子氏は、次の文章を残している。
「インドシナ難民の定住を促進するための施設では、健康管理や就職の斡旋など共に日本語教育が事業の重要な目的であった。日本語教育の専門家による文部省の協議会は、教育の期間、目標、内容などについて検討し、3ケ月の期間で、生活上最低限必要な日本語を聞き話し読み書く能力を養う日本語そのものの教育と、日本社会の生活習慣・社会慣習の基礎的な知識を養う教育を行うことを決定した。」(注12
 関西には、米国やヨーロッパ、東南アジアに派遣され、戻ってきた商社マンの夫人が大勢住んでいた。この夫人方は、外国で日本語を教えた方もいたし、今度、機会があれば、日本語を教えよう、そのためには、日本語の教育法を学びたい、と吉田教授のカルチャーセンターで学んでいた。吉田教授は、北尾典子さんら教師団を編成し、姫路センターの建築開業と同時に、昭和54年12月11日に、日本語教育の開校式を行った。(注13
大和市の大和定住促進センターが開所したのは、翌昭和55年(1980年)2月29日である。
 吉田教授は、日本語教育は、基礎的な事柄を徹底的教え込み、後、実際に使うこと、応用することが必要で、大事だという持論であった。3カ月でよいという。
 吉田教授は、歌人としても有名な方であると聞いた。やや皮肉屋で、ボヤキ屋の吉田教授を鷲塚課長があやしている、と感じたものである。
吉田教授と西尾珪子さんという統率者に、今から考えると、当方の失策だが、手当は計上していない。われわれは、吉田教授は、国立の大阪外国語大学教授であること、西尾氏は、国語課が認可した公益社団法人であるからと甘えていた(鷲塚氏にこのことを確認すると、時間が経過してから、お二人に難民事業本部の「参与」という肩書きを差し上げ、名目的な手当を出しようにしたという。)。
 吉田教授がボヤキ屋だった理由は、大阪の日本語の教師団が全員女性であり、学生相手と違い、いろいろと気苦労が絶えなかったからであろう。
 吉田教授は、学問的功績もあり、人望もあったから、「日本語の地平線-吉田彌壽夫先生古稀記念論集」(1999年12月20日・くろしお出版)が出版されている。
大和市の定住センターで、難民に日本語教育をお願いしたのは、社団法人国際日本語普及協会である。
学習院大学の国語学者大野晋教授門下の西尾珪子氏は、作曲家團伊玖磨氏の妹さんである。團伊玖磨氏には、私が文化庁庶務課課長補佐の頃、文化庁が委員会の委員をお願いしており、團伊玖磨氏の事務所に何度か書類を届けたものである。黒飛さんというお名前の秘書がおられ、珍しいお名前なので記憶している
 国際日本語普及協会は、文化庁国語課から社団法人の認可を得たばかりであった。私事になるが、私は、北九州市小倉北区出身で、小倉二中、小倉高校時代、伊玖磨氏、珪子氏の父上、團伊能氏(團?磨の長男、東大の美学の助教授を経て、九州朝日放送会長)が1947年及び1950年の福岡全県1区の参議院の選挙に出馬され当選されたことを覚えていた。選挙カーが「團伊能」「團伊能」と連呼し、走っていた状景を思い出した。西尾氏にこのことを申し上げると、その選挙カーに乗られたこともあるという。西尾氏は、国際文化会館の松本重治さんの秘書をされていたと伺う。
 昭和55年2月1日、西尾珪子氏、宮崎茂子氏(注14)、坂本きく枝氏、工藤宮子氏(当時の名刺。のち岩見氏)と会っている。
西尾さんには、10,で後述するように、3カ月で、習得させることができるという論文もある。
野元菊雄国立国語研究所長は、簡約日本語を唱えておられ、読売新聞1982年(昭和57年)5月14日夕刊に「外国人に学びやすく-簡約日本語-単語は二千語、文法しぼりこむ」というエッセイを掲載されている。
野元菊雄所長は、難民事業本部発行の「IR月報」36号(1984年9月5日)に笹沼忠調査課長(鷲塚課長の後任)がインタビューした記事において、「今ここで個人的に言わせて貰うならば、もう少し学習時間を長くしておけばどうだったかと考えないわけではない。学習者の回転の問題、予算の問題等総合的に考察して3ケ月の期間が決められたものであるが、個人差にもよるものであるから、これが6ケ月だったら格段に日本語が向上するということでもない。しかし、私は、学習時間が長い方が良いということを否定するものではない。」
この文章から見ると、野元所長が、「3ケ月」を決定したようである。また、悩まれたようである。
われわれ、連絡調整会議事務局からすれば、長ければいいとしても、難民滞在費の負担増である。回転率がはやいほどよい。
 私が、野元所長、あるいは水谷修座長に、「3か月でお願いします」あるいは、「何か月でもいいからきめて下さい」「できるだけ短く」という注文を付けた記憶は一切ない。
 こうして、国語課の中の協議会、それも国立国語研究所の主導で、日本語教育カ3月が決まったように思う。1年ほど経過して、4か月になった。
 日本語自体とともに、日本文化、日本の生活指導ということを教えることが必要である、こういう意見が、教師や事務局からもでていた。そういう含みもあり、4か月になったと理解している。当時、黒木審議官から筆者は、日本語とともに日本文化、生活指導を教える、このことを文部省は、明記してはとの提案をうけ、文部省国語課、国際文化課へ、打診したが、「日本語教育」のみは責任をもつが、日本文化、生活指導といったことまで、責任は負えないといった理由で、拒絶されたことを思い出す。実際には、2つのセンターで、それぞれ、日本文化、生活指導が行われていた。(注15
こんなことがあった。商社マン夫人達は、京都、奈良、大阪に住んでいた。その自宅から、姫路まで、電車で往復する。アジア福祉教育財団の鷲塚課長は、通常の、すなわち鈍行の運賃で計算している。ところが、皆さんは、京都から、新大阪から、新幹線の「こだま」を利用し、姫路駅におり、バスで、砥堀にいく。そこで、鷲塚課長と私は、予算の計上されている文部省、大蔵省と交渉し、片道は、新幹線こだまの料金で支払うようにして、喜ばれた。
 東京では、ビジネスマン、学者、外交官およびその夫人、家族などに、正確な高度な日本語を教えることを目的とした「社団法人 国際日本語普及協会」が、その数年前に文化庁国語課の認可を得て活動しており、専務理事西尾珪子さんから、難民の日本語教育を担当してよいという、御返事を頂いていた。私が、文化庁の庶務課課長補佐か著作権調査官の頃、石田正一郎国語課長、森正直課長補佐の時であったと思う。
 関西の吉田教授とは、遠方であったが、吉田教授と鷲塚課長が頻繁に往来した。姫路のセンターは、附近住民への了解がはやくすみ、1979年の秋に、難民の受入ができ、姫路の定住センターは、日本語教育を開始できた。
吉田教授は亡くなられ、関西の日本語教育のプロ集団は、その後、どうなっているだろうか。その点、西尾珪子さん(注16)、宮崎茂子さん、岩見宮子さん、安逹幸子さんらの国際日本語普及協会が、現在、都内で、外国人外交官、商社マン、大学生に日本語を教え、日本語教師を養成し、日本語教育法を研究し、外国において「日本語」教科書を発行し、いいお仕事をされていることは、嬉しい限りである。
 私が、当時、気になっていたのは、日本語教師への時間当たり単価のことだった。日本語は日本人は、誰でもできるが、日本語教育はだれでもできるとは言えない。これを大蔵省は理解するだろうか。幸い、鷲塚氏が国語課にいて事情を知っており、大蔵省と折衝し、妥当な金額になったと思う。姫路の定住センターの所長は、労働省のOBだった。定年退職した人は、給料報酬のことはいわない。難民事業本部職員もいろいろな経歴の人がいる。
一般職員とのバランスを考慮すべきかということである。
後年、外務省の新任の担当官が、こういう経緯を知らず、「品川の救援センターの日本語教育はボランテアに1時間2400円支払って行う」という発言をし、すでに日本語教育について、プロ集団である国際日本語普及協会に委託をきめている関係者との間に混乱を招いたと聞いたことがある。定住センターの事務職員、日本語教師への報酬が別々に決められる以上、差があることは、仕方なかった。専門職への報酬が高いのは当然である。
定住難民、一時滞在難民への日本語教育を文部省の予算で負担する時は、難民事業本部の鷲塚課長を通して支払う。もし、一時滞在の難民への日本語教育は、外務省予算で支払うのであれば(外務省が難民事業本部の人件費など「その他」は負担した)、外務省の新任の担当官が、ボランテイアを募集し、低く、或いは高く、支払っても自由である、ということになる。

10,カリキュラムと

 西尾珪子氏は、「3か月の日本語教育」と題して、「国際交流」28号28頁に、日本語教育を担当され、その行われた詳細を述べておられる。少し述べてみる。
両センターの教師団は、日本語教師養成講座を出ていることを最低限の資格として、姫路が27名ほど、大和が33名ほどで、何度も教師連絡会で教授法の統一をはかった。
姫路のセンターは、「ジャパニーズ・フォー・ビギナーズ」を日本文字に書き直した教材を選び、大和では、海外技術者研修調査会発行の「日本語の基礎」を使用した。日本語教育における基礎語彙は、850語、プラス地域的な必要に応じて、150語、合計1000語とする、文字は、ひらかな、カタカナを含め、漢字は提出漢字400とした。
双方の教科書を綿密に分析すると、「ジャパニーズ・フォー・ビギナーズ」と「日本語の基礎」の中の漢字は、272字共通した。双方別々の文字、人名地域的な、地名漢字を含めて400の漢字を選んだ。基本文型については、双方の教科書を検討して50文型、その例文を出し合って、了解ごとにしたという。
 文化庁のホームページに平成15年度「日本語教育研究協議会 第5分科会」報告がある。
西尾珪子(社団法人国際日本語普及協会理事長)、鈴木雅子(国際教育センター日本語主任講師)、内藤真知子(社団法人国際日本語普及協会)の3人が、「インドシナ難民の日本語教育から地域の日本語支援へとレールが敷かれていったこと」について語った記録である。
安逹幸子氏は、大和定住センターと品川のセンター、併せて3年間教えらたれたのち、国際交流基金の派遣で、タイ国のチュラルコン大学とタマサート大学で学生に日本語を教えた。難民を対象とした時は、1クラスが少なかった(多くて15名、10名程度だったと思う-大家)、タイの大学では、1クラス40名である。このこともあるが、インドシナ難民の方が、学習意欲高く、「がっちり基礎をたたきこめた」と、「我田引水」的?感想を1984年9月5日発行の難民事業本部部内報「IR月報」36号に寄せている。

注1
ベ平連については、鶴見俊輔・上坂冬子「対論・異色昭和史」(PHP新書・2009年)184頁以下。アメリカのCIAがベ平連に目をつけたことについては、1909頁。

注2
昭和43年(1968年)12月10日、白バイ警官に変装した男が府中で、3億円を強奪した事件があるが、当時、早大学生が、黒人兵を立川の公団住宅で匿っていて、緊張したとの記録がある(関谷滋・坂元良江編「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社・1998年)452頁(島田昭博執筆)。
 わたくしは、著作権法に関する事件として駒込観音事件(東京地裁平成21年5月28日判決、知財高裁平成22年3月25日判決、最高裁平成22年12月7日決定)を読んだ。これは、先代の頃、制作された観音像が「おそろしい顔」であるとの声に、人々に親しまれるものにしたいとして、島田住職は、独断で、「穏やかな顔」にすげ替えた。これについて、制作した仏師の三男、彫刻家西山三郎が光源寺の住職を訴えた事件である。訴えられた光源寺の住職は、島田昭博氏で、約40年前のベ平連の早大生で、黒人脱走兵を立川で匿っていた人であった。

注3
鶴見俊輔(1922-2015)は、後藤新平(1857-1929)の孫である。後藤新平は、安場保和(1835-1899)(肥後細川藩、横井小楠門下、福岡県令、男爵)の次女和子と結婚し、その子愛子は、鶴見祐輔と結婚、鶴見和子、俊輔が生まれた。安場の長女静子は、佐野彪太と結婚した。佐野彪太の弟が佐野学(1892-1953)(日本共産党中央委員長)、彪太の息子が佐野碩(1905-1966)(演出家・作詞家・社会主義運動家)で、平野義太郎は、安場の孫娘を妻とした。駄場裕司「後藤新平をめぐる権力構造の研究」(南窓社・2007年)208頁。
鶴見俊輔は、アメリカに留学したが、ベトナム戦争のアメリカに批判的であった。祖父後藤新平は、親ソ的な政治家であり、近親者である佐野学、佐野碩、平野義太郎は、共産党員で反米であった。その反米親ソの気分がベ平連を作ったと思う。

注4
当時、中東から石油を運び、日本から自動車などを搭載して中東へ行き来する日本船には、日本人船員10人から15人程度は乗船していた。日本人船員は、NHKの朝のテレビドラマ、紅白歌合戦などを、日本のテレビを視聴するのが楽しみであった。香港、シンガポールなどに寄港の時、NHK、民間放送の人気番組を複製したビデオを差し入れてもらっていた。テレビ番組は、「映画の著作物」として作ってなく、出演者、原作者は、1回(又は再放送分)の謝金しか得ていない。テレビ番組には、いろんな権利が詰まっており、これを複製して、4,5人でも観覧することは、著作権侵害であり、著作隣接権侵害である。日本船主協会と権利者団体-日本音楽著作権協会(JASRAC)、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)、シナリオ作家協会、日本文藝著作権保護同盟、日本放送作家協会、日本レコード協会ーが、話し合いをし、1,30分物1本459円、30分越える毎に5割増しする、2,海上の使用は、1本750円、30分越える毎に5割増し、ビデオ化する場所を一箇所のスタジオに決めることなどを決めた。この著作権・著作隣接権の料金を、権利者団体が集め、俳優などの芸団協が62%、JASRACが18%、日本レコード協会が1%、文藝19%(日本文藝著作権保護同盟、日本放送作家協会、シナリオ作家協会が使用割合に応じて配分)するという仕組みを作った。私は、この会合に著作権課課長補佐として、立会人、保証人といった役割でこの交渉に立ち会った。このことについて大家重夫「最近の著作権紛争とその課題」(法曹親和会発行「親和」(1982年11月205頁)。

注5
村角泰「ボートピープル到着の頃」愛36号59頁。
昭和54年12月18日、衆議院外務委員会において、渋谷邦彦議員から、500人の定住枠を定めたが、インドシンア難民の定住センターにおける状況などを質問し、村角局長が説明員として答弁している。村角氏は、ブラジル大使、儀典長をされた。

注6
色摩力夫「インドシナ難民対策の現状と課題」ジュリスト781号(1981年1月1日号)34頁。色摩氏は、陸軍幼年学校に学び、このとき敗戦を迎えたいる。サン・パウロ総領事、ホンジュラス大使、コロンビア大使、チリ大使ののち1992年退官、浜松大学国際経済学部教授。
著書
「オルテガ-現代文明論の先駆者」中公新書・1988年。
「アメリゴ・ヴェスプッチ-謎の航海者の軌跡」中公新書・1993年。
「国家権力の解剖-軍隊と警察」総合法令・1994年・
「黄昏のスペイン帝国-オリバーレスとリシュリュー」中央公論社・1996年。
「フランコ-スペイン現代史の迷路」(中公叢書)中央公論新社・2000年。
「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか-8月15日と9月2日の間のはかりしれな い断層」黙出版・2000年。
「国際連合という神話」PHP新書・2001年。
共著
「国民のための戦争と平和の法-国連とPKOの問題点」小室直樹と共著・総合法令・1993年。
「人にはなぜ教育が必要なのか」小室直樹と共著・総合法令・1997年。
「今、国連そして日本」田中義具・渡辺昭夫と共著・自由国民社・2004年。
このほか多数の著作がある。

注7
黒木忠正「インドシナ難民と国内対策」「外国人登録」267号、268号(昭和56年)。
黒木忠正「インドシナ難民受入れ事業30年を振り返って」愛29号(2005年12月)8頁
黒木忠正「ボートピープル到着の頃」愛36号(2012年12月発行)57頁。
このほか次の著書がある。
黒木忠正「正しい外国人雇用」日本加除出版・1994年4月。
黒木忠正「入管法・外登法用語事典」日本加除出版・2001年6月。
山田鐐一・黒木忠正「わかりやすい入管法 第6版」有斐閣・2004年4月。
黒木忠正「はじめての入管法」日本加除出版・2012年8月。
山田鐐一・黒木忠正「よくわかる入管法 第3版」有斐閣・2012年12月。

注8
桔梗氏は、のち、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科に学ばれ、「国連手段安全保障制度における執行体制の分権化とその補完:集団的意思の個別的執行の制度化に関する考察を中心として」により博士号(国際経済法学)を取得された。

注9
このとき、佐藤栄作がノーベル賞を授けられたことを記念してできている佐藤栄作記念財団(文部省が所管する財団法人)も候補になったが、アジア孤児福祉財団が外務省所管法人であったことが決め手になったと思う。

注10
華山親義(1900年9月生-1979年8月)は、東條英機内閣が昭和17年、大東亜省を創設の際、青木一男大臣(貴族院議員)のもとで、会計課長。北京大使館総領事、戦後、山形県副知事を経て、昭和38年以来、社会党から衆議院議員に3期当選(1963年11月、1967年1月、1969年12月)した。1972年8月10日死去。1967年(昭和42年)4月21日、佐藤栄作首相から「武器輸出3原則」の答弁を引き出している。この3原則は、47年続いたが、2014年(平成26年)、安倍内閣で、見直された。

注11
高橋典史「宗教組織によるインドシナ難民支援事業の展開-立正佼成会を事例に」(「宗教と社会貢献」4巻1号1頁(2014年4月))。高橋氏は、東洋大学社会学部社会文化システム学科・准教授。

注12
北尾典子「姫路定住促進センターの日本語教育と定住者の日本語の実情」(吉田彌壽夫先生古稀記念論集編集委員会「日本語の地平線-吉田彌壽夫先生古稀記念論集」(くろしお出版・1999年)80頁。この論集には、植田直子「姫路定住促進センターニオケルプレイスメント開発」、吉本優子「定住インドシナ難民の談話における相づち使用に関する一考察」も収録されている。

注13
(財)アジア福祉教育財団難民事業本部「インドシナ難民に対する日本語教育20年の軌跡」157頁に姫路が早く決まったことについて、吉田弥寿夫発言があるが、筆者はまったく、記憶にない。

注14
末松偕一郎(1875-1947)は、内務官僚、徳島県、滋賀県、茨城県、広島県の各知事を務め、福岡4区から衆議院議員通算5期(立憲民政党)、別府市長を務め、現職中死去。福岡県築上郡上毛町友枝の出身で、父親は、小倉藩の藩医。筆者の父親大家国夫は、友枝村の隣村、唐原村(現・上毛町上唐原)出身で、同郷であること、また、偕一郎次男、宮崎茂子氏実兄の朝日新聞社OB末松満氏と私の父は、旧制福岡高校、東大が同級であった。これらのことは、偶然手にした偕一郎三男末松経正長女の大野真理子「オーマイ・パパ」(文芸社・2003年)により知る。
末松偕一郎は、福岡県の公立学校法人九州歯科大学の前身の九州歯科医学専門学校時代の理事長で、日窒コンツエルンの野口遵から専門学校へ多額の資金を出させた功労者である。筆者は、2008年4月1日から2012年3月末まで、公立学校法人九州歯科大学の学外理事を務めてこれを知った。偕一郎夫人は、第一次大隈内閣の農相大石正巳の娘、満寿意であったが若死にされ、千代と再婚された。三男経正は、齋藤隆夫代議士の娘四女愛子と結婚した。次男満は、野口遵の娘と結婚した。宮崎茂子氏は、五女で末っ子であられた。
藤田嗣治の甥(嗣治の長姉の子)で、開成中学同級の蘆原英了(本名敏信)は、(末松満について)「彼はもっぱら演説がうまく、演説をさせたらクラス第一いや校内随一であったと思う。誰しも彼は政治家となり、代議士となり、大臣になると思っていたが、東京帝大卒業後、朝日新聞社に入り、週刊朝日の編集長をやったり、東大新聞研究所に入ったり、東海大学教授をやったりしている。」(「私の半自叙伝」(新宿書房・1983年)92頁)と書いている。

注15
(財)アジア福祉教育財団難民事業本部「インドシナ難民に対する日本語教育20年の軌跡」161頁。

注16
西尾珪子「3か月の日本語教育」国際交流28号(1981年7月1日発行)28頁。
西尾珪子「難民と共に学んだ30年-難民受入れと日本語教育の新しい取組み」愛35号(2011年12月発行)12頁。
なお、(財)アジア福祉教育財団難民事業本部「インドシナ難民に対する日本語教育20年の軌跡」(2000年3月31日)は、国際日本語普及協会の山本紀美子氏が編集され、西尾珪子、岩見宮子、関口明子、桜田鉄之助氏らが執筆され、姫路定住促進センターの北尾典子氏の協力をえて、詳しい、有益な資料となっている。